コメント『産経新聞』1月9日朝刊

シャルリー・エブド紙襲撃事件について『産経新聞』1月9日朝刊に掲載されたコメントを下記に再録します。インターネット上では前日夜に公開されていたものです。

なお、普通に読めばわかるように、私は移民を抑制しろなどとは言っていません。価値観の根本的な相違が露わにされると、移民の抑制論への支持は一層高まるだろうという予測を記しているだけです。すでにフランスにしてもイギリスにしても、中道右派と左派のいずれも移民抑制論に転じており、「どう抑制するか」の手法で争っている(そもそもどうしたら抑制できるのか分からない)段階ですので、これは予測というほどでもなくて、すでに定まった趨勢がより強まるだろうと言っているだけです。今すでにいる人を政策的に排斥するという話ではありません。

なお、人道的な理由での難民受け入れは、大規模に行い続けているので、「西欧が偏狭になった」といった議論は行き過ぎと思います。それを言ってしまうと日本は「昔も今も変わらずものすごく偏狭」の一言で終わってしまいます。難民も移民も原則受け入れていませんので。「受け入れに限界がある」と言っただけで「排斥だ」と言われてしまう西欧の基準は、ダブルスタンダードがあちこちにあっても、やはり非常に高いものがあります。そのような基準を設定してかなり実現しているところから西欧の指導力が生まれていることは認めざるを得ません。

もちろん例えばイギリスの移民問題に関する学会の一定の人たちが、移民抑制に向かう保守党・労働党双方を(もちろんそれ以外の極右政党も含めて)「移民に対して否定的になった」と批判するのは、それは個人の思想信条の自由です。そういった移民問題の研究者が、実際に移民社会の一部が公然とシャリーアの施行を要求することがどれだけ深刻な意味を持つのか、ホスト社会にとっても受け入れ難いのか、という点をまともに論じません。

移民の「過激化」(といっても多くはシャリーアの施行を要求している「だけ」ですが)に影響を及ぼすイスラーム教の政治イデオロギーをまともに受け止めていることはほとんどありません。まるでイスラーム政治思想は「誤謬」であって、そのようなものを信じるのは何かの過ちであり、一部の過激な狂信者だけであり、そのような狂信に追い込む原因は、社会や政治問題であると説くのです。それはかなり無理をした(おそらく間違っていることがやがて証明される)仮説に過ぎません。

実際には、シャリーア施行を要求する「過激派」の人の大部分は「え?故郷のパキスタンでもやっているだけのシャリーア施行ですよ?イスラームは普遍なんだからイギリスでも施行しないといけないに決まっているじゃないですか。しかもウチのあたりの街区なんて住民の9割以上ムスリムなんだから、施行して当然ですよね?そこに住んでいる少数派の人の方がわれわれに従うべきなんですよ」と言われて愕然、というところから「多文化主義は失敗した」「移民を制限しよう」という話になっているのに、こういった問題意識を持つ人を全て「極右だ」と言ってしまっては話がややこしくなっています。また、シャリーアの施行を主張する人はイギリスの多数派の考えからは「過激派」「狂信者」「ならず者」に見えるのかもしれませんが、コミュニティでは「宗教に熱心な人」ということになる。

こういった厄介な現実を伝えるイギリスのメディアを、全部「イスラモフォビア」と言って本を書いていた日本の研究者もいた。

そういう研究者は、「シャリーアの施行は当然だ」「イスラーム教が中傷されたら戦うのが義務だ」と考える人が存在するということが信じられないか、都合が悪いから言わないだけです。単に全く知らないという場合も多い。合理的な説明要因の外にあるとされる宗教的思想が政治的選択・行動の要因であると議論することは、ある種の学問を欧米でやっている人からいうと、やりにくい、評価されないという問題が背後にあります。そういった微妙なところを、外部の日本人の研究者がイギリスとイスラーム世界の両方を見て指摘してあげればいいのだが、普通はイギリスの研究者に従属して受け売りしているだけの人が大多数。で、先方の学界動向が変わると、日本の研究者の次の世代が出てきてまたそれを受け売りする。悲しき近代。

日本は逆に、文化本質主義が強すぎて、思想(あるいは漠然と「歴史」)と行動との関係を一直線で捉えすぎな一般的な風潮がありますが、欧米の現在の社会科学系学会では思想を政治的な選択の決定要因として取り入れることには強い抵抗があります。しかしそれも、長い歴史から見れば、一時的に、過度に合理的選択を強調していた時代だったと振り返られることになるでしょう。学問なんてそんなものです。現実によって反証されて、発展していくんです。

さて、下記がコメント本文です。

「西洋社会に拒絶感、移民抑制も」『産経新聞』2015.1.8 20:45

 ■東京大学准教授、池内恵(いけうち・さとし)氏の談話

 今回のテロ事件により、西洋社会は、これまでなるべく直視しないようにしてきた問題に正面から向き合わざるを得なくなるだろう。すなわち西洋近代社会とイスラム世界の間に横たわる根本的な理念の対立だ。

 西洋社会において、イスラム教徒の個人としての権利は保障されているが、イスラム教徒の一定数の間では神の下した教義の絶対性や優越性が認められなければ権利が侵害されているとする考え方が根強い。真理であるがゆえに批判や揶揄(やゆ)は許されないとの考えだ。

 一部の西側メディアは人間には表現の自由があると考え、イスラムの優越性の主張に意図的に挑戦している。西洋社会は今後も人間が神に挑戦する自由は絶対に譲らないだろう。それがなくなれば中世に逆戻りすると考えているからだ。

 根本的な解決を求めれば結論は2つ。イスラム教に関してはみなが口を閉ざすと合意するか、イスラム世界が政教分離するかだが、いずれも近い将来に実現する可能性は低い。

 ただ現実的にはこうした暴力の結果として表立ったイスラム批判は徐々に抑制されるだろうし、イスラム教徒の間に暴力を否定する動きも出る。それによる均衡状態だけが長期的にあり得る沈静化の道筋だろう。

 西洋社会は、個々の人間は平等という理念に従い多くの移民を受け入れてきた。だが、こうしたテロにより、一定数のイスラム教徒が掲げる優越主義への拒絶感が高まり、中東などからの移民受け入れが抑制される可能性もある。