ブログ・タイトルの由来

このブログの開設を知った人から、「風姿花伝」と銘打っているということは、中東・イスラーム学の名人が極意を教えてくれるということかね?と聞かれました。

決してそういうことではありません。

むしろ自分自身に対する呼びかけです。

なぜこのブログを立ち上げる気になったかというと、1973年9月生まれの私はもう40歳になってしまった、ということを正面から見つめようという気になったからです。

何で40歳になったから「風姿花伝」なのかというと、、、

ちょっと話が遠回りします。

私の場合、世の中に向けて文章を書き始めるようになったのは、通常より早く、20代の後半からでした。私が公に文章を書く機会を得た日は明確に特定できます。2001年の9月11日でした。

日本のイスラーム学会の業界では絶対に許されない説を最初の論文で書いてしまい、とある有力教授から学会の満座の席で恫喝され、その瞬間から、同分野の大学院生が文字通り目の前にいても一言も口をきいてくれなくなった、というのがこの年の早い時期にありました。

この年の4月からアジア経済研究所に就職していたため、終身雇用は保障されていました。

ただし、学会の枠で仕事をするつもりでいれば、一生文章を書く機会を得られないことは確実視されていました。

学会の有力者におもねって心にないことを論文に書けば、やがてそれが自分自身の学説の発展を縛ることになりますから、書けません。信じるところを信じるとおりに書いたことの結果は甘受するつもりでした。

しかしそれは若者の無謀な侠気というもので、実際に、世の中に向けて書く機会が一生ないかもしれない、ということの意味は、日に日に重くのしかかってきました。海浜幕張の職場の、陽だまりの中で、何度か呼吸困難になって倒れました。

元来が、やがては世の中でものを書いて生きていく、という目標・目的があり、その素材として中東・イスラーム学を選んだという事情がありますから、一生その機会を得られそうもない、という見通しは、途方もなく厳しいものだったのでしょう。

学会の枠の外で、なおかつ中東・イスラーム学について書く機会を得られた直接のきっかけは、2001年の9・11事件。

その瞬間、私は27歳で、翌日からアジア経済研究所の机に座っていると、次々に新聞社・通信社から電話がかかってきました。「イスラームを専門にしている人ならだれでもいい、説明してくれ」という様子でした。

基本的には、私の今現在の生活は、その時から連続しています。原稿の依頼は、時と共に性質を変えながら、途切れることなく続いています。飛んできたさまざまな球をひたすら打つ、という生活が続いてきました。

それまで日本の現代イスラーム研究は、「イスラーム復興」「イスラームが解決する」「イスラーム的システム」といった、日本の現代思想・文学界の期待に応えた「夢」を語ることに長けていました。中東研究やイスラーム学への入り口が限られているため、これに反する議論を行うことは、即排除されることを意味しました。また、特定の、野心的な教授が、予算やポストを獲得して、忠実な弟子にのみ配分する、ということが行われてきました(今も行なわれています)。

現実に即した中東・イスラーム分析が求められるようになったのは、現実に起きた事件の前に、一見難解な説を振りかざして、独善的に世の中に対して説教する教授、それにひたすら追随する弟子たちに、世間一般、特に出版・メディア界の一部から疑いの目が向けられたからだと思います。そこから、偶然のことながらこの年の4月からアジア経済研究所に就職していた私に、文章を書く機会の隙間がわずかに開けました。そこから入る以外に、もう道はありませんでした。

振り返ると、最初に発表した一般向けの文章は、「イスラーム原理主義の思想と行動」というもので、時事通信社から2001年9月13日に配信されています(池内恵『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、に再録)。

9月11日夜(日本時間)に事件が起きて、翌朝職場に行って電話を受け、さらにその翌日には配信されているのですから、よっぽど短時間に書いたというのが分かります。

当時、「原理主義」という言葉を使うだけで、研究者として失格、と烙印を押されたものでした。ですから、この言葉を意図して使って現象を説明する第一歩を踏み出したことは、学会に対する挑戦状と言っていいものでした。

もちろん、通信社配信の、無名の若手研究員の論説など、地方紙に掲載されても、ほとんど人目に留まることはなかったでしょう。しかしその時から、次々と舞い込んでくる依頼に応えて、同じことを繰り返し書くのではなく、こちらの中にある書きたいある対象を一部分ずつ、一側面ずつ描いて発表してゆけば、やがてどこかで一冊の本になる、という将来像が浮かびました(こうやって書いたものをテーマごとに時系列に並べたのが2004年刊行の『アラブ政治の今を読む』です)。

確かに、書くことは得意でした。時事通信に書いた原稿は、「数時間後」という締め切りにもかかわらず、パソコンに向かって書いてみたらあっという間に書けて、むしろ時間が余ってしまったことを覚えています。

これは生得、というか育ちのせいで、いばれるものではありません。活字以外にまったく情報を与えられない生活をしてきたので(『書物の運命』のあちこちにちらほらとそのあたりの事情が書いてあります)、一つの文章を発想すると、一瞬で目の前に文頭から文末までが映像のように、ただしすべてが活字で現れる、という具合になっていました。この頃は、浮かんでくる文章の写真を「なぞる」だけで文章が書けるような感覚がありました。

また、原稿用紙に万年筆で原稿を書いてファックスで送り、それがゲラになって送り返されてきてまたそれに手を入れてファックスで送り、それがやがて新聞や雑誌や本という形で送られてくる、という父の生活を家で毎日見ていましたから、出版の工程や、世の中に発するタイミング、書いてから出るまでのタイムラグも、書き手の立場から、かなり正確にわかっていました。

なお、私自身は大学入学と同時にワープロ、そしてすぐにウィンドウズのパソコンを使い始めたので、手書きで原稿を書いたことはありません。

もし手書きで書かなければならないのだったら・・・もしかすると文章を書く仕事をしていないかもしれませんね。大学受験の準備であまりに多くの筆記をし、腱鞘炎気味になり、手で書くという作業自体はできれば避けたかったですから。

私が20代の半ばまでに身に着けていた「書く」という行為は、純粋にキーワードや文体や構成や出だしや結語を発想することだけで、具体的な中身が必ずしも伴っているわけではありませんでした。いくら文章の構想や構成がうまくても、オリジナルな研究の蓄積がなければ研究者は隅々まで文章を書ききれません。

普通は研究者は研究を積み重ね、論文を苦労して書きながら、文章の構成法や表現を覚えていくのですが、私の場合は、特殊な育ち方があったため、研究を積み重ねる前に文章だけは異様に書けるようになっていました。

また、中身と文章は不即不離なので、文章の論理や構成を見て「おかしい」文章は、研究内容からもおかしい、ということが、直感的に分かるようになっていました。ある学説について、事実を積み上げて「おかしい」と証明することはできないが、論理的に、この方向性で行くと、やがて何らかの意味で行き詰る、ということは分かるようになったということです。

たとえそれが世間的に評価されており、学会でもてはやされている学説であっても、論理構成としておかしければ、どうしてもおかしいと感じられ、それに則って文章を書くことが生理的にできない、という状態でした。

言っておきますが、今はそんなことは感じません。文章がおかしいように見えても偉大な発見や発想を含んでいる論文や著書はいくらでもあります。

また、文章だけを見て極端に先の先まで勘を働かせるというか、強く感じて思い込むということが、もう知的にも、体力的にもできなくなっています。

そして、自分の書く文章もまた、最初から最後まで見通せるかのような感覚は薄れ、いつまでたっても終着点が見えない課題に取り組み続け、書き続けることに耐えられるようになりました。つまり、かなり鈍感になったということです。

まだ部分的に子供と言っていいぐらいの若い時に、一時的にある能力が、突出して鋭敏に発達するということは、よくあることなのではないでしょうか。

文章に対する異様な感覚という点だけで言えば、中学2年生の時がおそらくもっとも敏感だったでしょう。瞬時に与えられた言葉を用いて回文を作ったり、何の変哲もない事務的な用語を韻を踏んだり意味をずらしたりしてとてつもなく面白い文章にするといったことができました(そんな能力はすぐに消えました。ずっと続いていたら病んでいたでしょう)。

子供の敏感な感性のしっぽを残しながら、ある程度は大人の研究も積み重ねていた20代半ばには、「文章は書きたいが素材がない。素材をくれたら、調べてきた人の何倍も上手に書ける」という状態だったのです。

そのような状態で2001年の9月11日を迎えます。

(続く)