『風姿花伝』第一章「年来稽古」の条々、アラフォーの心得と「初心」について

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ものすごく遅れている論文が終わっておらず、それが何よりも気にかかって、自分自身の単著(複数)の執筆も滞る。そんな中ブログの執筆などしていたらどこ方面にも義理が立たないこととておりからの蒸し暑さも言訳に更新が途絶えていた。

しかし執筆の過程での発見やら、イラク、イラン、シリア、イスラエル・ガザやら、あと忘れられているようだが同様に重要な動きがあるリビアやイエメンなど、中東の現地の激しい変転と、それにまつわる情報や論説の奔出する勢いは止め処なく、受け入れるだけでは消化不良でよくない。

しかしそれらを包括的に集めて整理して分析などしようものなら今取り掛かっている論文やら本やらの完成は遥か先に遠ざかってしまいそうだから、やはり日々の中東情勢からは少し距離を置いておこう。

その代わりと言っては何だが、このブログを立ち上げたきっかけ、ブログのタイトルにもなっている『風姿花伝』について書いてみよう。今日はほんの一瞬だけ、世阿弥の芸論の世界に逃避してみたい。

世阿弥の『風姿花伝』は、ごく短い序章に続く第一章「年来稽古条々」で、芸事に携わる人間への訓戒ともいうべき、各人の年代ごとに肝に銘じるべき項目が手短かに列挙されている。

「七歳」から始まっていて、「この芸において、大方七歳をもて初めとす」とある。

七歳というのは数え年だとすると現在の六歳か下手をすると五歳ぐらいであってもおかしくなく、その頃に芸事の手ほどきを始めるというのは今に至るまで変わりないだろう。

このころは良いですね。

「このころの能の稽古、かならずその者しぜんといたすことに得たる風体あるべし」という。七歳の芸事の手ほどきの段階は、なるべく子供がやりたいようにやらせておくがよいという。あるがままに(レリゴーですか)自然にやっているだけでそれなりに風情がある。「ふとしいださんかかりを、うちまかせて心のままにせさすべし」であるそうな。

「さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず」。

なぜならば、「あまりにいたく諫むれば、童は気を失いて、能ものぐさくなりたちぬれば、やがて能はとまるなり」。あんまりきつく叱ってやらせていると、子供はやる気を失ってしまい上達しなくなる。

たぶんそうでしょうね。そもそも向いている子は、という条件付きでしょうが。

「十二三より」「十七八より」と、取り立てて芸事を仕込まれたわけでもない私にとってもどことなく思い当たることがあるような条が続くが、それはまたいつか今度触れることにして、「二十四五」でいったん開花する「花」についてもまた後で考えることにして、個人的にズドーンと衝撃を受けた「三十四五」の条に飛ぼう。

世阿弥の時代は「五十有余」で老齢の域に達していたというから、今に当て嵌めるなら、幼児期はともかく、若年・壮年期については5歳から10歳ぐらい足してみるといいのだろう。そうなると「三十四五」が私の該当する段階だ。

世阿弥曰く、「このころの能、盛りの極めなり。ここにて、この条々を究めさとりて、堪能になれば、さだめて天下に許され、 名望を得べし」

この年代が芸の盛りの最高潮だというのですね。ここで芸を極めれば、世に認められ、名声を得ることも可能だという。

しかし、、、

「もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、いまだ真の花を究めぬしてと知るべし」

だそうです。

なぜならば、「もし究めずば、四十より能は下るべし」。

薄々感じてはいるんだがそうなんだなー。

子供のころ、叔父さんの物理学者が「数学者は40過ぎたら使い物にならない」と語っていた。当時は意味がよく分からずぼんやり聞いているだけだったが、そうか、そうだった。あの時叔父さんは何歳だったんだろう?ものすごい年上に感じたが、実際は助手から助教授になったぐらいだったんだろうか?

世阿弥は「三十四五」の条では妙に畳み掛ける。繰り返しが多い。

「さるほどに、上るは三十四五までのころ、下るは四十以来なり」。

もうさっき聞いたよもういいよわかったよ~

でもやめてくれない。

「かへすがへす、このころ天下の許されを得ずば、能を究めたるとは思ふべからず」。

この時期に世に認められていなければ、もうそれ以降に芸を極められるとは思うなよ。だそうです。

だから、
「ここにてなほつつしむべし。このころは、過ぎし方をもおぼえ、また、行く先のてだてをもおぼゆる時分なり」

もう一度心を引き締め直せ。この年頃になれば、芸のこなし方・身の処し方、先行きの方針などもわかってきているはずだ。そうはいかないんだなー。

そこでまたもう一度。
「このころ究めずば、こののち天下の許されを得んこと、かへすがへすかたかるべし。」

もうわかりましたよ許してー。

でもね、世阿弥がこれを書いていたのはだいたい1400年頃で、おそらく30代後半から40歳ぐらい。

彼自身が、この年頃で成果を出さねば、もう終わってしまうぞ。その先は下り坂だぞ。と自分自身に言い聞かせていたんじゃないかな。観念していながら、少し焦りもあったかもしれない。

あるいは、いい年しながら一向に芸が上達しない、芸に精進しない先輩たちを見て苛立っていたのかもしれない、ああなってはいけない、なんて思っていたのかもしれない。

あれ、『風姿花伝』の第一章はこれに続いて「四十四五」「五十有余」までありますけど、それは世阿弥はどうして書けたの?知ったかぶり?

たぶんこれは、お父さんの観阿弥の姿を見て書いたのではないか。そもそもこういった年代ごとの稽古の指針そのものが、観阿弥から日頃教えられていたことを咀嚼して書いたものなんじゃないかな。

大学受験の頃に世阿弥の『風姿花伝』を読んだとき、あたかも芸を極めきった名人、年齢的にも白髭の長老のような人が書いたのだと思い込んでいたのだけれども、今読み直してみると、教えられたもの、受け継いだものをようやく受け止められるようになりながら、すでに下り坂が忍び寄ってきていることに怯え、早く自らの芸の形を示さなければならないと焦燥感に駆られる、そんな大変な時期に書かれていたものだと分かる。決して悟りの境地に達してから書いたものではないだろう。

そうしてみると、「二十四五」を振り返って語る条が切ない。

「このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり」
この頃に芸が定まり始める。稽古にも熱が入る。

「声もすでになほり、体もさだまる時分」であるから、「この道に二つの果報あり」。それは「声と身形」すなわち張りのある声と身体。

この時期は盛りの時期で、人目にも立つだろう。「よそめにも、すは上手いで来たりとて、人も目に立つるなり」

そうなると「もと名人などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初む るなり」
名人に勝負して勢いで勝ってしまうこともあるかもしれない。そうしたら世の人々は褒め称えるだろうし、本人も自分は芸達者だと思うようになるだろう。

「これ、かへすがへす主のため仇なり」
しかしこれが本人のためにならない。

なぜならば、これは「真の花にはあらず」

それは「時分の花」なのである。

「時分の花」とは、「年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍しき花なり」

「たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし」

「時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり」

世阿弥の、自分自身の経験に照らした、悔恨を込めた後世への戒めでしょうか。

しかし若い時の「時分の花」が儚く底の浅いものだから駄目なのかというとそうでもない。ここで世阿弥は「時分の花」を「初心」とも言いかえている。

あれ、世阿弥は「初心忘るべからず」とも言っているのではなかっただろうか。その場合の初心とここでの初心の関係はどうなのだろうか?

「初心忘るべからず」は世阿弥が老境に達してから著した『花鏡』の中に出てくる。ここにおいて「初心」は『風姿花伝』の頃とは意味合いが異なってきていて、もっと複雑で多様なものになっている。

「初心」とはもちろん最初は若い時に発見して体得するものだけれども、『花鏡』では、どの年代にでもそれぞれに新しい「初心」を得ることができる、ということになっている。若くなければできない芸はそれはそれでかけがえがない。しかし円熟期にも、そして老境に入ってもなお、人は日々心新たに「初心」を発見することができるのだ。失われたものを嘆くことはない。今得ているものもやがては失ってしまうことも恐れることはない。その時々に「初心」はあり、精進次第でそれを発見できるのだ。

私には『花鏡』の境地を今から窺い知ることは到底できないが、少なくとも『風姿花伝』の時点では、世阿弥は失われた「時分の花」を振り返らず、真の達成を求め、やがて訪れる下り坂を予期して身を引き締めていたのだろうと想像する。そしてその後の世阿弥に、『風姿花伝』を著した時点では予想もつかなかった、「初心」を新たにする機会が幾度も訪れたことを、嬉しく思う。