『週刊ダイヤモンド』にインタビューが掲載されました。
週刊ダイヤモンド 2015年 10/17 号 [雑誌]
「池内恵 全ての文献を網羅して”知の体系”に近づく」『週刊ダイヤモンド』2015年10月17日号(10月10日発売)、43頁
特集「『読書』を極める!」の中に1頁ひっそりと掲載されています。
インタビューを受けてから私の校閲が入るのかと思ったら入らなかったので、私が責任を負った文章ではありません。かなり明確にニュアンスを伝えたにもかかわらず、なおも通俗的な書き方になって異なる印象を与えているところがいくつか見られました。
冒頭に、「読書について、広く一般の読者に向けた話をする際には、いつもちゅうちょすることがあります」と書き始めてくれたのは正解で、「あなたの本の読み方を紹介することで読書案内としたい」という依頼を受けた時にはまずこのことから始めます。私は職業として本を読んで書いており、時には本を買うことに予算がついていたりするので、その読み方や買い方は、趣味で読書をする人とは異なります。ですので、私の本の読み方、買い方はそのままでは参考にはできないのではないかな、と考えています。
以前『公研』で林望さんとまさに読書をめぐって対談した時に、冒頭でどちらかともなく、「本を読め」と勧めることへの「躊躇」を互いに話し始めましたので、同じような感覚なのだな、と思いました。職業だからたくさん読むこともできるし読まなければならない環境にあるのだから、一般読者に向けて「この本を読め!」なんてとても恥ずかしくて説教できない、という「含羞」の感覚です。
(なお、『公研』は会員頒布のみの非売品で、読者から依頼・問い合わせが多く来ると小さな編集部は回らなくなるだろうという配慮から、掲載情報を通知していません。売れることを考えなくていい会員頒布物なので、研究者などの普段話している視点がストレートに出た対談などが載っていることが多くあり、編集者の中には『公研』を入手して本の企画の参考にしている人もいるようです)
さて、この冒頭で、本の読み方指南をすることに躊躇する旨を述べた後、私はこう語ったことになっています。「ですから、職業として本を読み、物を書いている今でも、本の買い方、読み方、置き方など、全てが普通ではないのです(笑)」。
そう聞こえたのであればやむを得ませんが、実際には異なる意味を伝えようとしていました。しかし記者が文章のつなぎ方を次のようにしたために、伝わる意味が変わったのです。
記事では「職業として本を読み、物を書いている今でも・・・普通ではない」というつなぎ方をしていますが、そのように私は話していないはずです。「職業として本を読み、物を書いているから・・・普通ではない」というのが私の言っていたことで、そうすれば冒頭の「躊躇」にも自然につながります。さらに記事ではここで(笑)を入れているので、なんだかつまらない本読み自慢をしているようにも見えかねませんが、実際には「職業ですから、普通の買い方、読み方はしないので、あまりご参考にはならないと思います(ため息)」のような語り方をしているはずです。
文章というものは文脈をどう設定するかが大部分ですから、このように文章と文章をどう接続するかで、全く意味が変わり、印象が変わります。
もちろん「参考にはならないと思います」と書くと真に受けてがっかりする読者もいると思うので、記者は分かっていて違う意味に変えたのだと思います。ただし本当に完全に参考にならないわけではなく、「参考にならないような読み方を参考にする」ことは可能なはずですので、本来私が語ったように書いて欲しかったのですが。また、「参考にならないような買い方、読み方」についてもっといろいろ語りましたが、それらはほとんど記事に反映されていません。紙幅も足りないですし。それについては『書物の運命』などを読めば多くが書いてありあす。ただし絶版ですが。
読書をするとは、文そのものだけでなく、文脈を読み取ったり自ら構成していく力を身につけるためのものであると思います。読書が力になるということはそういうことです。職業的に文章を書かなくとも、日常的に、言葉によって文脈を作り、意味づけていくことで、生活は変わります。
さて、私のインタビュー記事はともかく、書店や図書館の使い方を含めた、様々な読書情報が載っている。特集の冒頭は「成毛眞と本を買いに」。
そして特集の第一部「知性を磨く読書術」の片隅に私のインタビューも掲載されているのですが、その冒頭は4頁を使って、やっぱり佐藤優。ここでも佐藤優。常になんらかの形では面白いと言える部分を含めることができる、一定のクオリティを保っているという意味では確かにすごいのですが、私のところに来る月刊誌や週刊誌、ほとんどあらゆる号に載っているので、正直、飽きてきます。
そしてここでも「反知性主義」にひっかけて話をしている。
そして「ただ、反知性主義ということで、一つ言えるのは、森本あんりさんが書いた『反知性主義』(新潮社)は読まない方がいいです」(34頁)なんて言っている。ありゃりゃ。
「反知性主義に陥りたくなければまず、声高に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。」なんて書いた人への反撃か。森本あんりとホーフスタッター以外は全部便乗本、とか書いてしまったからなあ。事実だけど。
山形浩生さんはこのあともう面倒になっちゃったのか。多分本業が忙しくなったのだろう。
なぜ森本あんりさんの本を読んではいけないかというと、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』などに依拠していることから、「現在日本で問題になっている反知性主義の文脈とは異なるからです」とのこと。
だったら日本の現象については「反知性主義」ではない違う概念を考えたらいいのに、それこそが知性でしょ・・・と思いますが、もう言い出してしまったから仕方がないのでしょう。「反知性主義批判」を旗印に知性派をもって任ずる学者やコラムニストが衆を恃んでいくつも出版プロジェクトや言論集会などを立ち上げてしまい、出版業界がビジネスとして動き始めてしまった。インテリならちょっとだけ聞いたことのあるホーフスタッターの「反知性主義」の意味を、実はよく知らないで正反対に使ってしまって「バカ」を批判するちょっとかっこいい上から目線の言葉として使ってしまったらこれが出版や新聞業界でウケてしまった。佐藤さんは元の概念からのズレに最初から気づいていたかもしれませんが、日本の現代のインテリの運動としての(概念を取り違えて始まった)「反知性主義」批判の波に乗ってしまった以上、もう引っ込むわけにはいかない、ということでしょう。佐藤さんは日本型「反知性主義」批判の不可欠なポスターボーイです。行き過ぎたイスラエル諜報筋全知全能論とともに、(米国の元ネタとは全く反対の定義での)「反知性主義」批判も、佐藤さんの絶対譲れない議論となっていくのでしょうか。それを無批判に拡散する出版・新聞業界の知性こそが問われなければなりません。
この特集で佐藤さん自身が良いことを言ってくれている。
「ただし、「悪貨が良貨を駆逐する」として知られる”グレシャムの法則”は、どのような市場でも成り立ちます。出版業界には、再販売価格維持制度の下で、取材にコストを掛けることなく、損益分岐点を超えることしか考えず、納期を最優先して粗製乱造を続けている会社があります。中長期的には、消費者の信頼を失って、沈没してしまうと思います。」(35頁)
佐藤さんは物事の本質をついたことを、文脈とは無関係に頻繁にすらっと言えてしまう本能か才能をお持ちなのでしょう。思うに、啓示の言葉を読んできた人ならではの言と思います。啓示ってのは、唐突に真実を言ってしまうものです。
この一節は、「何でもかんでも佐藤優(か池上彰)に頼めば損益分岐点は超える商品にしてくれる」と頼りきって同工異曲の記事や本を濫造する出版業界への痛烈な批判にも読めました。
ああ、読書っていいですね。