ブログの更新の間隔が空いてしまいました。夏休み、ということではなく、ものすごく忙しい時にこうなります。
『潮』の9月号にイラク政治や「イスラーム国家」について寄稿しました。
池内恵「緊迫のイラク情勢と国際社会」『潮』2014年9月号(通巻667号)、140-145頁
編集部がまず私に質問を行い、また私の方からそれに応えつつ講義をするように盛り込むべき論点や情報を考えながらしゃべり、テープ起こしを編集して文章にしたものを、さらに私が書き直しています。
紙幅の都合で十分に論じきれないこともありますが、通常の雑誌よりは長く誌面を取ってもらっているのではないか、また、基礎から説き起こしているのではないか、と思います。
今回の議論のうち重要と私が思うポイントの一つは、「イラクの現在は宗派紛争なのか?」という問題。
私の考え方は、これは『中東 危機の震源を読む』(新潮社)などを見て頂ければいいですが、2005年頃からずっと書いていますが、下記のようなものです。
(1)宗派紛争(「宗教コミュニティ間の紛争」という社会・政治的意味での)は現に存在している。
(2)宗派紛争(「宗教・宗派間の教義をめぐる争い」という宗教的意味での)はほとんど存在しない。ただし上記の社会政治的な意味での紛争が生じた後には教義的な意味づけをして扇動する者たちが出てきて一部では本当に教義をめぐる闘争になる場合もある。
この両方を理解しないといけないということです。
中東専門家は、往々にして「一般の報道・認識は間違っている」と言いたがり、この問題については「宗派紛争なんてない」と言います。
それを通じて、なんだかイラクについて(あるいはシリアについて、レバノンについて、パレスチナについて)の報道が間違っており、政策も根本的に間違っている・・・というような印象を醸し出します。そこから、一般聴衆には、とにかく中東は理解不能なことが多い、という印象を受ける人が多いようです。
なんだかいつも専門家に説教されているような印象がありますね。
でも、これはかなり単純な誤解や印象操作、論点ずらしで成り立っている議論なんです(ご本人たちに論点をずらしている意識がないような様子が怖いですが。。。業界の同調圧力に依存した教育って恐ろしい。意図してやっていないということは、間違ったことや結果として嘘となることを言っていいということにはなりません)。
確かに、イラクの紛争の「原因」が「教義をめぐる宗派紛争だ」ということはないでしょう。
私の『潮』の記事でも、宗派紛争が教義の対立として起きているわけではないとかなり周到に解説してあります。
しかし「根本原因は宗教・教義の違いじゃないんだよ」という議論が、いつのまにか「そもそも宗派紛争などないのに欧米の報道が間違っていて、それを口実に介入がくるぞけしからん反対運動しよ~」といった方向に議論が脱線してしまうと、かなり間違いや不適当な部分を含んだ論説になってしまいます。
そもそも「宗派紛争」とは英語の「sectarian strife」や、アラビア語の「fitna ta’ifiyya」を日本語訳して流通している概念です。もともとの「宗派」という言葉(の原語)は、宗教の「教義」ではなく、社会政治的な宗教・宗派のコミュニティあるいはそのようなコミュニティへの帰属意識を核にしたさまざまな政治現象という意味の「sect; sectarianism」あるいは「tai’fa; ta’ifiyya」なのです。
正確に「宗派コミュニティー間紛争」と訳すべきだ、と私は遠い昔に書いたことがありますが、まあ実現しないでしょう。
「宗派紛争」と言っているんだから「教義」を問題にしているんだろう、という観念は、単に日本語に翻訳した後の語感から想像して一部の論者が勝手に議論していることなのです。
ですので、それに対して「別に教義論争をして争っているわけではないですよ」と正すのはいいですが、「宗派紛争そのものが存在しない」と議論する(あるいは暗示的に匂わせる)のは、間違っています。社会政治的な紛争としての宗派紛争は現に存在しているのですから。もともと英語やアラビア語の宗派紛争は社会政治的な意味で言っているんです。宗派紛争が「ない」というんだったら社会政治的な意味の宗派紛争がない、と示さないといけないが、それはできない。だって厳然とあるから。
「それぞれの宗派の中でも派閥があるから宗派紛争じゃないよ」という議論も、議論として成立していませんね。論点ずらしと論理混乱による見かけ上の議論の典型です。
「各宗派が『一枚岩』に他の宗派と争う(というかなり劇画的な)事態以外は宗派紛争ではない」という無茶な定義を勝手に(しかも明示せずに)置いて、「それとは違うから宗派紛争ではない」と言っているわけです。おかしいでしょう。こんなことばっかりです中東論は。
それを補正するのが私の仕事みたいになってしまっています。
こんなことはいい加減にやめたい。しかしやめると別の人がもっと変なことを言いに出てくるので、それを未然に阻止するためにメディアにほどほどに出ているというのが私の主観的認識です。
中東問題の議論は、現地の現実が複雑というよりも、論者の論理が複雑(かつ肝心なところにバグがある)なので分かりにくい、という場合が多いのではないでしょうか。
論者(専門家)が、「ふつうそれはないだろう」というような変な論理構成で議論し、しかも前提となるあり得ない定義などを説明しないので、「普通の論理では説明できない世界」「論理を超えた世界」であるかのように、一般読者・聴衆には映ってしまいがちです。
そうではなく、もっと筋道を立てて、「宗派の教義が紛争の根本の原因ではないとしても、実際に紛争が生じるときに、なぜ亀裂・対立軸が宗派や宗教コミュニティ間に走りがちなのだろうか?」と考えていった方が生産的なのではないでしょうか。これは突飛な論点、勇ましく上から説教したり他者を指弾できるネタではないかもしれませんが、人類社会に関するはるかに深遠な問題にかかわっていると思いますよ。
それを考える作業は時間がかかりますが、実り多いものと思います。
てっとり早く「宗派紛争など存在しないのに欧米の介入が作り出した・・・」といった議論をして、世論に対して説教をし、自らの存在意義を確認したいというのは研究者の性ですが、そういったことの先には、たいしたものは待っていません。せいぜいが自己満足と業界の仲間との結束感であり、背景ではそういう方面で議論をしている業界の偉い人への阿りが裏打ちしています(まあそれが一番重要なんだ、と本気で心の底から思い込んでいるらしいき人たちがいるのも確かなんですが・・・そういう人たちには大学という世界にいる資格はない、と私は本気で思っています。というか、別にいなくていいじゃないですか。よそにはもっと儲かって脚光を浴びる業界がありますよ。そちらにいかれたら?というだけのことです)。
論理的に整理しておきましょう。
(1)「宗派紛争なんかないのに報道・論評が間違っている」という議論は、日本における「宗派紛争」という観念についての言説批判、でしかありません(しかも言説批判として不適切である)。これまでの中東研究・中東論は、ある種の「研究イデオロギー」(業界の存在意義を高めるための主張)として、こういった言説批判を活発にしてきて、「それ専門」という人たちも特定の世代に多いので、それが当たり前だと思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません。中長期的には調整・是正されざるを得ない一時的な現象です。
(2)それに対して「なぜ教義をめぐっては対立していないのに、社会政治的な宗派紛争が起こるのだろうか。また、それが教義をめぐる闘いに転化する場合は、どういうメカニズムにおいてなのだろうか」という方向での探究は、実際に中東で生じている現象に取り組む作業です。こちらが本来の中東研究です。こちらに取り組むことが、どれだけ短期的に業界での評判が悪くなろうが、長期的には有意義なことです。
そういった基本的な研究者倫理とか、その前提となる「生き方」の問題は、大学で特定の授業とか先生から学んだのではなく、長い時間をかけて、家にいる父の姿や言葉から学んていたんだな・・・と今となっては思います。
大学での教育の価値を否定しているように見えかねませんが、そもそも大学は授業といった公式ルートだけから物事を伝えているわけではないからね。そして非公式なルートからも何事かが伝わってしまうのが大学という場の良い所なんだと思うよ。
とある同僚の偉い先生が、「大学は知のロンダリングをするところだ」と言っていましたが・・・表現はどうあれ、真実だなあ、と思いました。通常はつながらない、伝わらないものを、大学といういい加減な袋に放り込んでぐしゃぐしゃとかき混ぜると、何か別のものになって出てくる、というわけです(大きなお金が動く理系の業界の先生が「ロンダリング」と言うと迫力があります)。
そういった「何か」を伝える場所はこの世の中に大学だけではないけど、大学はもっとも有効な場だと思う。
このことについてはそのうちまた。