『読売クオータリー』2019年冬号(通巻48号)2019年1月30日発行に掲載されている論考(植田滋「精神的豊かさ求め浮遊した時代 宗教関連書から切り取る30年の思潮」30−39頁)で、平成の各年を彩る宗教関連書として池内恵『イスラーム世界の論じ方』(2009年)が取り上げられ、コメントも引用されています。(32−33頁)。
カテゴリー: 『増補新版イスラーム世界の論じ方』
【寄稿】『京都新聞』にインタビューが掲載されました
『京都新聞』にインタビューが掲載されていました。じっくり時間をとって話を聞いていただき、また時間をとって順番を待って文化欄に大きめのスペースを確保してもらって、満を持しての掲載。
「100年前の状況に近づく中東混迷 「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」など関連著書出版 東大准教授・池内恵さん」『京都新聞』2016年11月22日(朝刊17面)
おそらくウェブ上では読めないのでしょうね。また、京都新聞のデジタル版を見ると、「バックナンバーは過去10日」「毎日朝刊の最大10頁のみ」ということなので、デジタル版を購読しても読めなさそう(紙版を購読しているとデジタルは無料だそうです)。
うーん、もったいない。京都情報なら他府県からデジタルのみで購読する人が大勢いるのではないかな、と思うのだが。
せっかく「京都にいないと読めないプレミアム」感が強いので、ここでも文面は公開しません・・・
【インタビュー】週刊東洋経済に『増補新版 イスラーム世界の論じ方』について
インタビューが昨日発売の『週刊東洋経済』に掲載されています。
嬉しいことに、『増補新版 イスラーム世界の論じ方』について話を聞きに来てくれました。
「ブックス&トレンズ 『増補新版 イスラーム世界の論じ方』を書いた池内 恵氏に聞く」『週刊東洋経済』2016年6月18日号(6月13日発売)
【サポートページ開設】『増補新版イスラーム世界の論じ方』 まず目次を公開
2008年に出て、翌年にサントリー学芸賞(思想・歴史部門)をいただいた『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社)は、増刷が出て売り切れて入手困難になっていましたが、5月9日に、8本の論考とあとがきを加え、さらに索引も付けて『増補新版イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2016年)として再刊されました。総ページ536頁となりましたが、値段は旧版の2600円(本体価格)で変わりません。
『イスラーム国の衝撃』(文藝春秋)に続き、「風姿花伝」ブログにサポートページを開設して見ます。このページの右下(PCで閲覧している場合)のカテゴリー欄の『増補新版イスラーム世界の論じ方』をクリックすると、ブログの記事のうちこの本に関連づけられている記事が検索されて出てきます。
まず、目次を公開しておきましょう。第IV部とあとがき、年表の2008-2016年度分と索引が、新たに加わった部分です。第I部から第III部は、ページ数を含めて旧版と変わりません。表記を新版で統一したところがあります。
イスラーム思想史を律法主義と霊性主義の潮流に分けることで、両者を混同させた議論を避ける。イスラーム教とその統治体制が行った異教徒統治・支配の理念と実態を認識して、現代の国際社会の中での「共存」の適切な道筋を探る。日本では井筒俊彦に代表される「日本仏教的宗教観に引き付けた」理解が、独自の宗教思想としては重要であるものの、対象の認識を阻害してきたことを認識する。エマニュエル・トッドやアーヤーン・ヒルシ・アリーのような、フランスや米国の現代のイスラーム論の極端な振れ幅と、その思想的・政治社会的淵源を探る。
旧版の刊行後の国際社会の中で生じた諸事象によって、旧版に含まれていたテーマを、より広範に自由に展開する機会を得て、ここに完成版が出来上がりました。また、旧版以前に刊行されていた律法主義と霊性主義に関する総論を所収できたことも感慨深いです。
目次 『増補新版イスラーム世界の論じ方』
第I部 構造
第1章 メディアの射程
アラブが見たヒロシマ/アラブ・メディアは中東政治を変えるか/ムスリム統合への決意と原則
第2章 思想の円環
約束の地と堕落した女――アラブ知識人の見たアメリカ/イスラーム的宗教政治の構造
第II部 視座
第3章 人質にされたもの
人質事件の背景と構図/謎めいたメッセージ/メディアが世論に敗北した日/人質惨殺が問う日本の対外観
第4章 予定調和を超えて
インターネットと外交世論/イスラーム教と紛争/国際テロのメカニズム/「異文化理解」に欠けているもの/「他者への寛容」だけでは解決しない/「九・一一」の意味を再確認する/摩擦と対立の直視を/行政の悪習に踏み込めるか/メディアの「弱み」/政策論はどこに/「拝外」と「排外」の間/周縁の文学
第III部 時間
第5章 夜明けを待ちながら
民生向上を通して人心安定を/移行期イラクの枠組みと危機/イラク暫定政権の課題/治安回復が評価の鍵/再選ブッシュ大統領の責務
第6章 自由のゆくえ
中東の「失われた一〇年」/中東論が映し出す日本の言説空間/「差異への権利」のジレンマ/イスラーム教という知的課題/ジハードのメカニズム/構造変化の一年/フランスの暴動と差異の社会/マイナー脱却はなされるか/シャロン重篤で躓いた日本外交/ムハンマド風刺画騒動が問う原則の問題/自由のアポリア/ロレンス再訪/世俗化なき世界/史料の力/拉致とミサイルという共通項/カイロの定点観測/ローマ法王の「歴史認識」/「渡ってきた人」へのノーベル賞
第7章 散らばったパズル
「ローマの休日」と少子化日本/「石油中毒」脱せるか/「ムハンマド」言葉狩りの愚/「宵っ張り」アラブ系移民の仕事/「舶来」の概念を借りて/レバノンの泥沼/アラブ混迷の理由/エジプトの「鹿鳴館時代」/フセイン処刑とイラク近代史/フランス大統領選挙の隠れた争点/首相訪米で語るべきこと/「お上」頼みの正義の危うさ/中東民主化構想の苦い成果/「オリーブの枝」落とさぬ成果を/日米関係の躓きの石/近代化抜きの未来空間/コーラン翻訳の困難/エジプトはうるさい/レバノン的解決/揺らぐトルコの政教分離/ジハード論の広がり/遠のくミンダナオ和平/ひとつの時代の終わり
第IV部 対話
第8章 乱反射する鏡像
イスラーム教の律法主義と霊性主義――真の「対話」のために
エルサレム「神殿の丘」の宗教と権力
フランス・オブセッション――日本人は『文明の接近』から何を読みとるべきか
イスラームとの私的な闘争――新・西洋中心主義
第9章 われわれにとって「イスラーム」とは何か
井筒俊彦の主要著作に見る日本的イスラーム理解
言語的現象としての宗教
自由をめぐる二つの公準
「イスラーム国」の二つの顔
あとがき
地図
年表
索引
【寄稿】金子光晴の政治思想――『自由について』(中公文庫)への解説
3月の末ごろに「二つほど、文庫や全集に寄せた解説が刊行されました。そのうち一つは・・・」と書いて、『井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』の月報に寄稿したことをお知らせしましたが、二つ目の方をアップしていませんでした。フェイスブックでは通知していたのですけれども。
ブログに載せる時間がないのも当然で、その間に2冊本を完成させていました。
一冊は『増補新版 イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2016年)
で、そこにはこの井筒俊彦全集第12巻の月報に載せた「言語的現象としての宗教」が早くも収録されています。まあ月報目当てに全集を、それも井筒俊彦の書いた大昔のアラビア語の教科書の巻を買うかどうか決める人もいなさそうなので、早めに採録させてもらいました。私がずっと書きたいと思っていたテーマですし。予定より長めになってしまったにもかかわらず会議をして予定を変更して月報に載せてくださった慶應義塾大学出版会の皆様に感謝しています。
さらにもう一冊、新潮選書で『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』という本を書きおろしていました。奇跡的に終わりました(まだ細部の最終作業中です。連休中ずっとこれをやります)。なお、当初の予定では、新潮選書としてはこれまでにない薄さにして、ブックレットにするという私の企画意図から、税込み972円となっていましたが、結局バリバリと書いて1.5倍以上になってしまったので頁を増やし、税込み1080円になりました。
ものすごい勢いで執筆したので、終わった瞬間にパソコンが壊れてしまいました。マウスが動くが左クリックが効かないという、まるっきり物理的損傷・・・『イスラーム国の衝撃』を書く直前に思い立って導入したMacBook Air。最大限スペックを積んだところ非常に快適で、作業効率が断然上がりました。これで執筆も事務作業もブログ発信もSNS遊びも、同時にやって、まったく快適。本当によく働いてくれました。MacBook塚があったら持って行って供養したい。
ただいま古い予備のパソコンを引っ張り出して仕事していますので、以前よりずっと時間がかかります。
さて、3月末にアップしようとしていてできないでいたのが、金子光晴の文庫オリジナル・エッセー集への解説です。
池内恵「解説」金子光晴『自由について』中公文庫、2016年3月、247-260頁
中公文庫は金子光晴の代表作を多く出版してきましたが、今回は全集からあまり知られていないコラムを選んできて、文庫オリジナル編集。『自由について』というタイトルも今回のオリジナルです。編集さん頑張りました。
3月末に発売されましたので、まだ本屋にあるでしょうきっと。
このブログで以前、マレーシアに行ったときに金子光晴の話を書いたのが、編集者の目に留まったようです。
私も未読の、随想や聞き書きばかりでしたら、軽く読めるようでいて、端々に面白いところがある。面白いところを浮き立たせるように解説を書きました。かなり読み込んで書いたので、ぜひ手に取ってお読みください。
金子光晴が現代に生きていたら何て言っただろうな・・・と思うことが多いです(まあ、ボケてズレて見当はずれなことを言ったんではないか、という危惧の念もないではないですが、それも含めて。現代に甦るにして、何歳の人間として甦るかによって変わってきますね~)。
金子光晴を現代の話題に引き付けて読む、というか、現代の話題は実は過去にとっくの昔に議論されていて、それに対する金子の立場が筋が通っていて面白いのだ、というところが論旨です。
例えば解説の冒頭はこのように書き出しました。
「大学の文学部とはいったい何のためにあるのだろう。法学部なら役人を養成する。経済学部なら企業社会に人員を送り込む。このように、日本の近代の大学は、最初からそういった職業教育的機能を担ってきた。それでは文学部は何を養成するのか。これが分からないから文学部の学生は悩む」(247頁)
この自問にどう自答しているかは解説をお読みください。
人文系の意義とか、言論のガラパゴス化とか、今話題になっていることの多くについて、金子は独特の立場を示していてくれる(ように読める)のだが、これらのエッセーに一貫するテーマは、リベラリズムとヒューマニズムに対する問いかけだろう。そして、それを日本でやることについての、覚悟と諦めが、交互に去来する。そこがこの本の読みどころだろう。
不羈の精神の持ち主である金子の、軍国主義と戦争への批判は、おそらく生理的な嫌悪に根差したもので徹底的である。軍国主義の暴虐を生々しく描くことにかけて実に巧みである。しかしそれは軍と軍人に責任を押し付ける通俗的な議論ではない。日本の軍国主義が日本社会の底流に根差したものであったところにこそ、金子は深い恐れを抱いている。
「戦争中、もし日本が占領され、日本でレジスタンスをやったら、隣のおばさんはかくまってくれなかったと思う」(134頁)という日本社会の一般庶民への不信感と、「いわゆる進歩思想というものもあったが、あれ、個人の出世の綱でね」(同―135頁)という知識人・言論人への冷めた評価は対になっている。
「最近~になった」という話は、そういう話を作らないと商売にならない人たちが言っていることなので、たいていあてにならない(学者の言うことを信じると毎年「分水嶺」「ターニングポイント」が来ていることになってしまいます)ということがよく分かる本でもあります。
例えば次の文章なんて、金子が今の時代に生きていて、ぼそっとつぶやいたようにしか見えませんね。
「今日の若い世代がもっている『正義派』の気まぐれともおもえるイノセントぶりが、相当な来歴のある人生のタレントたちを屡々、コロリとまいらせる。不信に蝕まれてない新しい世代が、正面舞台からせりあがってきたという、期待の満足からとも察しられるが、むしろ、その感激のほうがイノセントな光景であろう。若さだけに惚れこむなんて、危険千万なことだ」(55頁)
「SEALs萌え」の作家・大学教員・メディア企業社員などにぜひ読んでもらいたい一文である。
石原慎太郎のスパルタ教育論の批判(「ぶんなぐられ教育」198-199頁)とか、時代の変わらなさにクラクラする。
これらはほんの一部分で、本文はもっと多岐にわたって論点が出てきますから、是非お手に取ってみてください。連休中ぐらいまでは本屋にあると思います。
ところで『自由について』は、その前の月に刊行された『じぶんというもの』とセットになっている。こちらは若者論、というか金子の晩年に若者向けに(『高一時代』などの媒体に掲載されたものが多い)に書いたコラムを集めたものなのだけれども、媒体の性質上求められる説教めいた話は早々に切り上げて、一向に生臭さが抜けない自分自身について、つまり「老い」についての自省録になっている。若者論こそ最大の老年論で、老年論こそが若者論になる、というのはもしかしたら鉄則かもしれません。読まされている方は何が何だかわからないだろうというのもまた鉄則。時間は一方向にしか流れませんからね。
『じぶんというもの』への解説は、ヤマザキマリさん。本文を原作に短編漫画化。それ目当てに勝っても損はないです。金子の若者論を通じた老年論の、鮮烈なコントラストの哀切さが、絵で浮かび上がってくる。これこそ文庫オリジナル。
【寄稿】井筒俊彦全集第12巻の月報に井筒俊彦における宗教と言語の関係について
二つほど、文庫や全集に寄せた解説が刊行されました。
そのうち一つは『井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』の月報に書いたものです。
「月報」というのは、全集などが刊行される際に挟み込まれている冊子です。解説というよりは、井筒俊彦の思想そのものについて、そしてこの巻の主題となる「言語」についての、論考を寄稿しました。
池内恵「言語的現象としての宗教」『月報 井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』慶應義塾大学出版会、2016年3月
井筒俊彦全集の全貌についての、慶應義塾大学出版会の特設サイトはこちらから。
私の寄稿のタイトル「言語的現象としての宗教」は、井筒の論文「言語的現象としての『啓示』」をちょっと意識しています(こちらは第11巻に収録されています)。私なりに、井筒における言語と宗教の関係を、対象化してみました。井筒のイスラーム論の特性と、その受容の際の日本的バイアスについては、過去に論文を書いてみましたが、今回はその続きとも言える論考です。
慶應義塾大学出版会の井筒俊彦全集は、全12巻+別巻で計13巻出ることになっています。次回の別巻で、いよいよ完結です。最後から二番目の巻で月報に滑り込むことができて、大変光栄でした。
なお、第12巻(詳細目次はこちらから)の主体をなす『アラビア語入門』が刊行されたのは1950年・・・。今でも役に立つのか?というと、たぶん、実用的にアラビア語の勉強を始めたいという人には、さすがに、向かないのじゃないかと思います。
ですが、アラビア語をできるようにならなくてもいい、という人にとってむしろ有益なのではないかと思います。そして日本人の圧倒的多数は、アラビア語を実用的にはやる必要がないでしょう。しかし日本語とも英語とも全く異なる言語体系がある、ということを感じ取るには、もしかすると井筒の大昔の入門が、最適かもしれません。
そして、井筒の本は多くが文庫になっていますが、さすがに『アラビア語入門』は文庫になっていませんし、今後もならないでしょう。そういう意味で、今回の全集で一番意義がある一冊と、言えるのかもしれません。全集で買わなければ手に入らない。これまでは入手が極めて困難だったのですから。
井筒俊彦は著作集が1991−93年に中央公論社から刊行されています。そちらは全11巻+別巻1の計12巻で、そこではアラビア語入門は収録されていませんでした。待望の一冊、と言えるでしょう。アッカド語やヒンドゥスターニー語についての論考・解説など、異世界に遊ぶには最適の一冊と言えるでしょう。
【寄稿】(補遺)パリ同時テロ事件について『ふらんす』増刊に書いていた
年末年初の出版物の通知を忘れていました。
昨年暮れから今まで、プエルトリコ、テキサス、ニューヨーク、神戸、シンガポール、ロンドンと回っていましたので、その間にいくつか抜け落ちていました。
池内恵「『イスラーム国』の二つの顔」白水社編集部編『ふらんす 特別編集 パリ同時テロ事件を考える』
白水社、2015年12月25日発行、106−109頁
前回、シャルリー・エブド誌襲撃事件の時の『ふらんす 特別編集 シャルリ・エブド事件を考える』に続いての寄稿です。
前回と同じく、巻末の収録となりました。
「自由をめぐる二つの公準」
「『イスラーム国』の二つの顔」
どこか韻を踏んでいますね?対になる作品です。前回からすでに今回があることを予想していたわけではないが、対になる部分のことはなんとなく予想していた。
なお、4月末か5月初頭までに、品切れになって入手が難しくなっている『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年)に、この論考を含めて10本余りを加えて、増補新版を出します。もともと分厚い本がさらに分厚くなりすぎるので、これが決定版。
単行本が出た後に発表した論考だけでなく、もっと前の、2002年の講義録を元にして論文集に収録されていたため前回は収録を見送った幻の論文なども再録します。あの頃、先の先まで考えて、一生懸命書いていたことは、全然古くなっていない。むしろ理論的に想定して仮定に仮定を重ねて書いたことが、どんどん現実化していく。
足掛け15年くらいかけての、イスラーム世界の思想面での年代記となってしまった。
そして、値段は初版と変わらない2600円にする予定なのです。
この本の増補再刊はかなり前から話があったのだけれども、価格と部数について、市場の声を聞くために、クラウドファンディング的なアンケートに協力もお願いした。その後押しもあって、増補したのに本体価格は据え置きの2600円、という現在の萎縮する出版業界では通常はあり得ない条件で刊行作業が進んでいます。皆様に御礼申し上げます。
また通知します。
【アンケート】もし新版が出たら、買います?『イスラーム世界の論じ方』
【御礼】ブログ・フェイスブックでの皆様の「いいね」の支えもあって、『増補新版 イスラーム世界の論じ方』が、中央公論新社から、2016年5月6日に、値段据え置きの2600円で、発売されることになりました。厚く御礼申し上げます。
新しい表紙はこのようなものになりました。
【ここまで2016年4月30日追記】
本日は、いつもこのブログやフェイスブックを読んでもらっている皆さんに、お聞してみたいことがあります。
この本なんですけど。大幅に論文を加えて、ほとんど1冊分ぐらい加えて新版が出たら、どれぐらいの人数が買ってくれるのでしょうか?装丁も新しくします。
『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年)
この本は、イスラーム教と政治に関する私の主要な論文を集めつつ、2004年から2008年までに書いた短めの論考をテーマごとにまとめて整序して、 2008年の11月に出版され、2009年には第31回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)をいただきました。2刷りまで行きましたが、売り切れて品切れ となっています。
初版も2刷りもそれほど多くはなかったので、持っている人は多くはありません。ただ、こういった学芸書にしては読みやすいのとテーマが一部の方の興味を引いたのか、研究者が書いた通常の本に比べると何倍も売れました。それでももちろん、累計1万部もいっていません。今年1月以来、『イスラーム国の衝撃』が多くの読者を得てからも増版されず、売り切れて、アマゾンでも9000円といった高値がついています。(今気づきましたが、アマゾンの「買取サービス」では、現時点で3149円となっており、定価の2600円より高い値段で買い取ってくれるところもあるようです。なお、この形のままで増版されることはありませんので、お持ちの方はそのまま持っておかれることをお勧めします)
これを増刷しないのかと出版社とやりとりしていますが、中央公論新社というところは実に固い会社で、石橋を叩いても渡るのを躊躇します。そのような固い会社だからこそ私も大切な原稿をお預けしてきたという事情があります。別にたくさん売りたいわけではなく、本当に必要とする人の手に、確実に、しっかりしたものを届けたいのです。中央公論新社からは『アラブ政治の今を読む』(2004年)以来の二冊目の論集でもありました。
『イスラーム世界の論じ方』は、時論集と論文集の要素を併せ持っています。時論集の部分を読むことで、なぜ論文集の部分が書かれているかも分かるようになっています。論じられている対象(中東政治・社会)について、日本に十分に・適切に伝わっていない情報の伝達を行いつつ、伝達された情報に基づいた私自身の理論的考察を同じ本で提供しているという、自己完結型の、この時点では日本のメディアで提供される中東情報の制約から、他に適切な方法がないと思って行った、異例の編集がなされたものです。そのような本が出版され、思いがけずもサントリー学芸賞をいただいたこと自体が、ある種の奇跡的な事件と思っております。
現在、この本に収録されている論考・論文は全てそのままにして、さらに、その後に書いた、グローバル・ガバナンスやグローバル・ジハードについての論文や、「イスラーム教と西洋近代」といった問題についての論文を追加して、ほとんど一冊付け加えたぐらいにして、新版を出そうと考えています。
どれぐらいの人が買ってくれるものでしょうか。
値段は、どれだけ部数が出るかによって大きく変わります。といってもベストセラーになる必要など全くないのです。5000部ぐらい行き渡ればそれでいいと思っています。それぐらい売れると分かっていれば、出版社はまともな手の届く値段をつけてくれます。「売れないかもしれない」という不安に怯えた出版社は、とてつもなく高い値段で少部数にしようとしがちです。そうやって本が売れなくなっていくという、悪循環です。
少部数だと各地の本屋にも行き渡らず、あっても一冊ぐらいしかない。それも棚にも差されずに倉庫のダンボール箱の中に放置されたりして、一定期間が過ぎると返本されて戻ってきて、移動の間に傷ついて廃棄処分になったりします。読者にとっては探し出すことすら困難です。
皆さんがもしこの本の新版を買いたいという意思がありましたら、そしてフェイスブック上で「いいね」を押すという意思表示をしてくれましたら、割にまともな値段でお手元に届くかもしれません。私としては何が何でも3000円以内に抑えたいと思っていますし、本当なら2600円という、当初の値段に抑えたいのです。以前に買っていただいた方も、もう一冊新しい本として買っていただいてもいいぐらいの追加部分があります。
もし本が出ることになりましたら、どの書店に行けば売っているかということまで含めて、刊行の状況をフェイスブック上でお伝えして、欲しいけど買えなかったとか、本屋に行ったけど見当たらなくて無駄足を踏んだといったことは極力ないように、配本の仕方、売り方まで工夫しますので。