自由主義者の「イスラーム国」論~あるいは中田考「先輩」について

10月7日のニュースウォッチ9で使われたコメントはほんの1行だけでしたが、この日報じられた二つの事案に関連したコメントとしてはこれだけで十分でしょう。

NHKニュースウォッチ9_10月7日

このキャプチャ画面(おでこが保守系政治家並みにテカってるのはブラインドの隙間から西日が当たっているから。カメラマンがすごく気にしていましたが、時間がないので続行しました)はコメントの後段部分ですが、この前に、日本には、イスラーム国、あるいはイスラーム教一般に対して、社会の周縁や、文科系知識人の間でのぼんやりとした流行として、自らの不満や願望を投影して勘違いして賛同・共鳴・期待する動きがサブカル的にあり(もちろん膨大な世間一般保守層にとっては単に印象が劣悪なんだろうけど)、そういった経路で情報を仕入れた、現実をよく知らずにそれぞれの特殊な不満を持っている人が、打ちどころが悪くて武器をもって参加してしまう例は今後も出るだろう、という旨を語ってあります(実際にはもうちょっと言葉を選んで婉曲かつ厳密にしゃべっていますけれども、まあ真意はこうであるということはまともな人には分かるでしょう)。

おそらく今後五月雨式に出てくる事例のほうが、今回のものより、影響も、主体の意図や能力においても、深刻なものになるでしょう。

翌日付でNHKのホームページに特集を文字で再現したものが掲載されています。

7日の放送は録画してありますがきちんと対照させる時間がないので正確には分かりませんが、ホームページのものはおそらく放送されたニュース特集で時間の関係で盛り込めなかった部分をごくわずか補ったものでしょう。私のコメントについても、放送された部分と若干異なっているかもしれませんが、包括的にコメントを出してあるので、私がしゃべった部分であることは確かです。

このニュース特集については、7日に少し書きましたが、9月29日に収録したもので、26歳の北大生がイスラーム国への参加を図って取り調べを受けた件の発覚する以前に話したものです。一般論・理論的な話をしたものの一部です。

元来は、このニュース番組でも少し取り上げられた別の26歳の男性(U氏)がシリアの武装勢力に参加したという件を軸に、日本人がもし「イスラーム国」に加わっていた場合、それが何を意味するのか、どのような国際的影響が考えられるのかなどを課題にするはずであった(少なくとも私に対してはそのような設問で取材をし、コメントを収録した)のですが、その後の新たな事件の発生や、放送時間を制約する別のニュースの出現が相次いだことで、放送される量が変わり、重点を置かれる論点も若干変わっていったのかもしれないと推測します。

なお、私自身はU氏のインタビューや発言内容を知らされずにコメントをしており、U氏の行動や発言そのものを分析をしたものではありません。しかし私が思想史と中東研究の経験から類推して提示した、日本側の参加者の人物類型や思想傾向、シリア側の武装勢力の状況や受け入れ態勢を、ほとんどそのままU氏が語っていました。双方の状況において、典型的なケースと思います。

なお、この特集と私のコメントは有為転変を経ております(先日ちょっと書きましたが)。9月23日に電話で取材を受けて詳細に問題の構図を伝えており、その後私のコメント内容を打ち合わせたうえで9月29日の収録となったわけですが、27日の御岳山噴火の影響で、いつこの問題を放送できるかが分からなくなり、お蔵入りしかけていました。それが、10月6日に発覚した「イスラーム国」への参加希望学生の問題の浮上で、急遽これについての報道と抱き合わせで7時のニュースで一部の素材を使うことにしたようです。

しかし、ご案内の通り、10月7日夕方には「日本人(日系アメリカ人含む)3人ノーベル物理学賞受賞」という、全てを上回るメガトン級のニュースが落ちてきて、まず7時のニュースは特別編成になり、私のコメント部分は省略(ついでに7時30分からの牧原出先生のクローズアップ現代・公文書管理特集も飛んでしまったようです・・・先端研受難の日。こちらは日を改めて放送されるようですので期待しましょう)。

9時からのニュース番組に移されたものの、「イスラーム国」参加希望北大生と、顔も名前も出していいという、別の武装集団に参加して帰ってきた26歳の男性の両方についての映像や本人の発言が長い時間をかけて流れる中で、問題の全体像を包括的に語った私のコメントのうち、放送されたのはほんの一瞬だけとなりました。しかし重ねて言いますが、この二人についてのみ取り上げるならば、放送されたコメントの部分だけで十分と思います。

U氏については、実名で顔を出して、その主張がかなり長く放送されました。売名行為・承認欲求を満たす場になりかねないので、極めて浅く未熟な行動とその理由づけの論理を、NHKニュースで流すことには弊害もあると思います。しかしこういった人々が現実に社会の中にいることを伝えたという意味で、メディアの役割は果たしたと言えるのではないかと思います。ある考えが報じられるということはそれが正しいということを意味しない、そもそも正しいと認定する主体は存在しない(少なくともNHKではない)という、最低限のメディア・リテラシーさえあれば、見紛うことのない映像であったと思います。

一昔前の、父権主義的な制約と配慮が多く加味されたニュース番組であれば、「本人が自分がやっていることの意味を深く分かっていないのではないか」「社会に知らせれば本人の将来のためにもならず、社会不安も生じさせるのではないか」といった様々な配慮から、U氏の発言はほとんど報じられず、顔も名前も伏せられたかもしれません。

しかし、現在の日本は自由な社会なので、法の範囲内で、自由にものを考えて発言することはまさに自由であり、本人が同意の上で公言したこと、やってしまったことを報じられて、それによってその後の人生に不利益をこうむることもまた自由です。自由主義社会とは愚行を犯す権利を認める社会であり、それによってもたらされる不利益を自らが担う義務を負うという条件の下で、今回の二人はそれを行使したということであると考えています。

北大生については顔と名前が伏せられていますが、これは今現在捜査中で立件されるか否かが不分明であることと、本人の発言の不明瞭さの次元がより著しいため、公開することがふさわしいか否かの判断が留保されたものと推測しています。U氏の場合は、発言の表面上の矛盾がより少なく、コメンテーターや評論家が流している程度のずさんさの社会批判であるため、それがなぜシリアでの戦闘と結びつくかにおいて飛躍が著しいものの、顔と実名を出して発言が報じられたものと考えられます。

そのような愚行をNHKの公共の電波がニュースとして流すか否かという問題に関して、重要なのは客観視・相対化する視点を番組が備えているかです。それを私のコメントが果たしたのかもしれません。ただし私はU氏の行動の詳細や発言映像を見ずにコメントしていますので、本来ならコメンテーターあるいはキャスターが加えるべき批判的・相対的・批評的な言及を、具体的にU氏の発言や行動に関して行ったわけではありません。その意味では、若干足りないところがある番組構成であったと思います。

ただし、私の事前コメントで想定した人物類型と関与形態であったため、実質的には客観視・相対化・批判的言及を行なった形になりました。

なお、この報道では二点の極めて重要な情報に触れられていません。①U氏が元自衛官であること、②U氏が加わった武装集団の名前。

①については、自衛隊出身者が海外で勝手に紛争に参加したことが政争の的になりかねないことが配慮されたのかもしれません。しかしU氏がなぜ武装集団に受け入れられたか、という点を見る際に、この情報があるのとないのとでは全く異なります。この点、毎日新聞の報道は有益でした。

「シリア:戦闘に元自衛官 けがで帰国「政治・思想的信条なし」」『毎日新聞』2014年10月09日 東京夕刊

②はその武装集団が、後にアル=カーイダあるいは「イスラーム国」といった国際的に、特に米国によってテロ組織認定を受けている組織に統合されている可能性が考えられます。

確証がないのでここでは名前を挙げませんが、おそらくU氏は、アレッポ北方・トルコとの国境近くのアザーズで勢力を保っていた組織に加わったのではないかと思います。その当時は独立していたが、その後合併あるいはより強い勢力による征服で異なる組織の傘下に入り、結果として上部勢力の指導部が「イスラーム国」に忠誠を誓う表明を行ったとみられています。

直接・同時期ではないにせよU氏が「国際テロ組織」の傘下に後に入る組織に加わっていたことになれば、北大生の場合以上に、「私戦」を行なったとして刑法上の疑義も生じかねず、そのような人物の体験談と主張を放送することがふさわしいかという問題になり得るが故に武装勢力の名前を言及するのを本人が避けたあるいはNHKが報じなかったのではないかと推測しています。これらは私の研究者としての推測で、NHKからは何も説明を受けていません(問うてもいません)。

そもそもこういった現地の複雑な情勢を理解できる人たちが番組を作っているかどうかも定かでなく、単によく分からなかったから報じなかった可能性もあります。また、本人が明確に武装集団の名前を覚えていないか発音できないといった可能性もあり得ます。

確かにこれらは厄介な問題ですが、こういった側面もテレビ局が報じることができ、かつ知識人も政治家も、感情論や表層的なこじつけによる、短絡的な政争の議論に持ち込むのでなく、本質的な政治問題として分析したうえで議論できるようになれば、日本も真の意味での近代の自由社会になったと言えると思います。それができないうちは、補助輪付きの自由にとどまると言っていいでしょう。

単に「NHKは自主規制・配慮するな」という問題ではなく、それを受け止める成熟した知性が社会に存在するか、というところがより本質的な問題であると思います。メディアはその国の市民社会の程度を反映したものにしかなりえないのです。

また、この段階では顔と名前が出ていませんでしたが、元同志社大学神学部教授の中田考氏の関与をめぐる捜索についても番組では取り上げられていました。

中田考氏は東京大学文学部イスラム学科という、日本の大学の中では稀な学科の一期生です。1982年設立と歴史も新しく、3年時にこの学科を選んで進学してくる者の数も極めて少数に限られています(2人か、1人か、0人か、というのが通例と思われます。あと学士入学・修士からの入学者がそれ以上にいます)。

実は私もまたこの学科を卒業しており、1994年に進学しているので、一回り下の後輩ということになります(なんでこの学科に入ったかはココで)。私自身は大学院は地域研究に移っており、1・2年の教養学部においてもイスラム思想以外のさまざまな学問に触れており(そもそも家庭教育で全然別のことを仕込まれていた)、イスラム学のみを自分の学問の基礎とはしておりませんが、同時に最も重要な学部3・4年を過ごしたことから、今に至るまで強い影響を受けてきたと自覚しています。この学科の一期生が、このような形で脚光を浴びるに至ったことには、卒業生として他人事とは見ていられず、世間一般にとっては奇異・不可解にのみ見えかねない状況を少しでも理解しやすくしておきたいという気持ちがあります。

この学科は歴代の卒業生を合わせてもそれほどの数ではなく、特に一期生は、業界内ではいろいろな意味で目立つ人たちであり、学生時代から意識せざるを得なかったことから、中田考氏についてはその人となりと思想・行動を私なりに理解しているつもりです。

いくつか言えることを記すと、まず、彼は顔を隠したり、思想や実際に行った行動について問われて否定することはないだろう、ということです。彼にとっては、「アッラーの教えに従った正しいこと」をしていると信じているがゆえに、「無知な異教徒」に積極的に話す必要はないが、問われれば話してもいい、ということであろうと思います。現にその後顔と名前を出したインタビュー記事が表に出るようになっています。

中田氏自身は日本の刑法に明確に触れるようなことはしていないと思いますが、ジハードによる武装闘争をシリアで行うことには強く賛同していると見られます。「イスラーム国」についてはその手法の一部が適切ではないと批判していますが、イスラーム法学的に明確に違法とまでは言えないと解釈しているようであり、その存在を肯定的に見て、接触を図っていることは、公言している通り、おそらく事実であると思われます

そのことだけでも、日本の法制度では「私戦」の予備あるいは陰謀に関与したととらえられる可能性が、法の解釈と適用の裁量如何ではあり得るものであり、そのことも、現在の中田氏は自覚していると思います。日本の刑法の存在と実際の効力は認めているものの、本人の思想によって超越的な視点から日本の刑法の価値を(「永遠の相の下では」)限定的(あるいは無価値)と捉えているため、刑に問われる可能性を認識しつつ、それほど意に介していないのではないかと思われます。

ただし2014年9月24日の国連安保理決議で「イスラーム国」への支援を阻止することが各国に義務付けられる以前には、この規定の適用によって「イスラーム国」への支援・参加を処罰することが現実的にあり得ると周知されていたわけではありません。死文化していたこの条文を適用して公判維持が可能なほどの犯罪事実を、9月24日から10月6日までの間に中田考氏が行ない得ていたかどうかを考えると、そのようなことはなかろうとかなり確信を持って言えます。

ジハードに関する中田考氏の立場は、イスラーム世界の中で、少なくともアラブ世界においては、さほど極端な意見ではなく、一つの有力な考え方であると見られます。ただし実際に実践することができる人はそれほど多くないとされる立場です。尊重されるが必ずしも多くによって実践されることのない、アラブ世界において一定の有効性を保っている思想を、ほぼそのままの形で日本に伝えてくれるという点で、中田考氏は貴重な存在です。日本向けに、日本社会に受け入れられることを主眼として、現実のアラブ世界ではさほど通用していない議論を「真のイスラーム」として発言する方が、長期的には認識と対処策を誤らせると考えます。

「イスラームは平和の宗教だ、対話せよ、共生せよ」といった議論を表向き行なっている人物が、学界の権力・権威主義・コネクションを背景に、気に入らない相手に公衆の面前で暴力をふるうに及ぶ(そして高い地位にある教授のほぼすべてが一堂に会しておりながら黙認して問わない)、といった事例さえ複数回体験している私にとっては、中田考氏からは、現世的な意味での権威主義を嫌い、暴力を忌避する、温和で、概して公正な人物であるという印象を受けます。その評価は、この事件に関する報道を見た上でも、変わっていません。

ただし、いくら現実が欺瞞に満ちたものであり、浅薄で劣悪な人間が世にはびこっているとしても、それに対抗して別の世界から何か絶対的な超越的な価値基準を持ってきてそれを当てはめて現実を全否定しても、自己満足以外に得るものはあまりないと私は考えています。

中田氏の日常・対人関係における穏和さは、イスラーム教によって示された真理を自分が知っているという確信から来るものであるため、「それを知らない・知ろうとしない異教徒」である私に対しては、別種の超越的な権威主義をもって接してくるため、かなり遠い過去に何度かあった会話の機会において、それほど話が通じたとは思いません。(そもそもまともに話したのはかなり若い時であり、年齢や研究者としての経験が違い過ぎたという事情もありました。また、イスラーム法学者としての聖典・法学解釈の運用能力を普遍的に価値的に優越したものととらえる中田氏からは、私の議論はそもそも前提としてなんら評価に値しないといった理由もあります)。

そして、中田氏の宗教信仰からもたらされる政治規範では、異教徒にはイスラーム教徒よりも制限された権利が与えられ、その価値を一段劣るものとして認定され、その立場と価値基準を受け入れる限りにおいて生存が許されることになっており、それを受け入れることは自由主義の原則の放棄を意味し、近代的な社会の崩壊を容認するに等しいと考えており、私は強く反対しています。

しかし立場が異なる人々の思想を、それが他者への危害を加えない範囲であれば認めるのが近代の自由主義の原則です。中田氏の思想に内包する危険性を認識しつつ、それを日本において実効的に他者に対して強制する機会が現れない段階では、中田氏の思想表現に規制をかける正当性は、自由主義社会の原則に照らせば、ないと考えています(そもそも人の頭の中身は外から規制できませんが)。そのことは中田氏の思想そのものを真理であるとか優越したものであると私が認めているということではありません。

イスラーム思想研究者としては、中田氏はまったく異なる見地から私と同じものを見ているということではないかと考えています。もちろん、中田氏の方では私がイスラーム教を日本の言説空間に紹介する際に「正直に話している」という点においては一定の評価をしつつ、(アッラーの下した唯一絶対の真理を認識することができないという意味で)「無知である」と認識しておられ、そもそもそのような「無知(超越的な視点からの)」であるにもかかわらずイスラーム教について発言することが本来(超越的な視点から)は許されないことであると考えていることを、いくつかのインターネット上の発言などから見知っています。中田氏の立場からは論理的必然としてそのような認識になることを私は理解しており、私の発言を実効的に制約したり物理的危害を加えることを自ら行うか教唆したりしない限りにおいては、表現の自由の範囲内であろうと考えています(受け取る人が中田氏の真意や思想体系を理解しておらず、中田氏の私に対する批判を異なる目的のために利用することは困ったことだとは考えていますが、基本的にそれは受け取って利用する人の理解力や品性の問題であると考えています。誤解による利用に中田氏がまったく責がないとも無意識・無垢であるとも思いませんが・・・)。

中田氏は、今回の事案を受けてのさまざまなインタビューでおそらく公に認めていることではないかと思いますが(活字になっているかどうかは別として)、正しい目的のためのジハードで軍事的に戦うことは正しい行いであり、そのような行いを目指す人物が自分を頼ってきたときにはできるだけの手助けをする、という信念を持ち実際にその手助けを行なっているものと思われます。これは、アラブ世界で(あるいはより広いイスラーム世界で)非常に多くの人が抱いており、可能であれば実践しようとしている考えであり、だからこそ国家間の取り決めによるグローバル・ジハード包囲網に効果が薄く、「イスラーム国」あるいはそれと競合する諸武装勢力への、多様なムスリム個々人による自発的な支援や参加が有効に阻止できていないのだと思います。

中田考氏が「イスラーム国」のリクルート組織の一員か?と問われれば、私は捜査機関ではなく、個人的に付き合いもないので本当のところは調べようがないのですが、イスラーム政治思想を研究し、グローバル・ジハード現象を研究してきた立場からは、「中田氏は組織の一員とは言えない」と推論します。

その理由は、中田氏がジハードに不熱心だとか組織と意見が違うといったことではなく、そもそも「イスラーム国」やアル=カーイダは明確な組織をもたずに運動を展開しているからです。シリア・イラクの外で「イスラーム国」に共鳴している人物・集団のうち、中田氏に限らず、シリア・イラクの「イスラーム国」そのものとの組織的なつながりが実証されうる人物や集団は、ごく限られていると考えられます。

しかし共鳴した人物・集団がもし実際に国境を超えて「イスラーム国」に合流し武装闘争に有機的に統合されれば、紛れもなくその組織の一員となります。中田氏はおそらく年齢・体力的にもそれは困難で、本人がインタビュー等で認めているように、組織の一員の友人、あるいはその紹介で訪れた客人、という立場を超えることはおそらくなかったのではないか、と推測します。

中田考氏は、そもそも正しいことをしているという信念が前提にあるために、インタビュー等で実際の行動や意図を偽ることはないと思います。ただし、その行動や意図の「正しさ」の基準が、イスラーム法学であるために、日本の一般的な聞き手や読み手には、真意が測りがたく、冗談か不真面目なウケ狙いの回答であるかのように見えてしまう場合もあるかと思います。また、イスラーム教を世界に広め、守ることを本分とするイスラーム法学者の役割に忠実であるため、異なる価値観が支配的な日本において、イスラーム教そのものへの強い批判や排斥を招きかねないと考える主張については、聞き手・読み手の誤解をあえて誘う立論を行なって関心を逸らす、あるいは肯定的な誤解をさせるということも、イスラーム教を広め守るための教義論争上のやむを得ない戦術として肯定しているのではないかと思われる節があり、日本の読み手が自らの論理や規範の範囲内で額面通りに受け取ることも、若干の危険性があるのではないかと危惧します。しかしそのような発言も自由の行使の範囲内であって、重要なのは、編集者や読み手が、発言の前提となる極めて異なる価値観(それはイスラーム世界では非常に支配的な価値観である)を認識した上で中田氏の意図を読み解くことであろうかと思います。

「イスラーム国」をはじめとしたグローバル・ジハードの諸運動については、「日本に組織ができたら危険だ」/「日本には組織がないから安全だ」という議論も、「あの人は組織に入っているからテロリストだ」/「組織に入っていないから無関係で無実だ」といった議論も、的を外しています。組織がないにもかかわらず、自発的に、一定数の支持者・共鳴者を動員できることにこそ、グローバル・ジハード運動の特徴があり、日本社会あるいはその他の社会にとっての危険性があります(それを支持する人にとっては「可能性」があります)。「イスラーム国」そのものにしても、複数の小集団のネットワーク的なつながりしかないものと考えています。イスラーム教の特定の理念、つまりカリフ制といった誰もが知る共通の理念の実現という目標を一つにしているからこそ、つながりのない諸集団がほぼ統一した行動を結果的に行っているものと考えています。

宗教者がテロを教唆したか否か、という問題には、人間の意志と行動との間の、非常に複雑で実証しがたい関係を含んでいます。

宗教者として一定の尊敬を集める人物が、例えば「ジハードに命をささげるのはアッラーに大きな報奨を受ける行為だ」と発言した場合、世界宗教であるイスラーム教の明文規定に支えられているために、信仰者あるいは異教徒のいずれの立場からもその発言を批判することは困難です。そして、このような一般的な発言を行なうことで、結果的に一定数の聞き手が武器を取って紛争地に赴き、状況によってはテロと国際社会から認定される行為を行うことは、一定の蓋然性をもって予測されます。しかし一般的な宗教的発言と受け手の行動との間に因果関係を実証することは容易ではなく、宗教者が意図を持って行った教唆として認定することも容易ではないため、法の支配の理念を堅持した法執行機関の適正な運用による対処を行なって実効性を得るには、困難が伴います。

分かりにくいと思いますが、この問題について、事情をよく分かっていないまま勘違いして発言・反応する人を含めた様々な人たちから揚げ足を取られないように書くには、このような書き方になります。

グローバル・ジハードへの動員は、日本では極めて小さな規模で、日本のサブカル的文脈でガラパゴス的な形で発生しています。しかし西欧社会では大規模な移民コミュニティを背景に、非常に大きな規模で、この「組織なき動員」が生じています。そのため、問題の対処は緊急性を帯び、かつ困難を極めています。

日本でも、やがてこの問題にもっと正面から向き合わなければならなくなると思います。

火山の噴火による多くの方々の死傷、日本出身者のノーベル賞受賞、いずれも重大なニュースです。しかし日本が将来に直面する問題の先触れとして、今回の、多くの人にとっては奇異なことばかりに見える「イスラーム国・その他武装勢力への参加希望者出現」という話題は、もしかすると、より重要な意味を持っているのではないかと思います。


【本エントリが増補のうえ、中田考『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社新書)に解説として収録されました】