【寄稿】金子光晴の政治思想――『自由について』(中公文庫)への解説

3月の末ごろに「二つほど、文庫や全集に寄せた解説が刊行されました。そのうち一つは・・・」と書いて、『井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』の月報に寄稿したことをお知らせしましたが、二つ目の方をアップしていませんでした。フェイスブックでは通知していたのですけれども。

ブログに載せる時間がないのも当然で、その間に2冊本を完成させていました。

一冊は『増補新版 イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2016年)
で、そこにはこの井筒俊彦全集第12巻の月報に載せた「言語的現象としての宗教」が早くも収録されています。まあ月報目当てに全集を、それも井筒俊彦の書いた大昔のアラビア語の教科書の巻を買うかどうか決める人もいなさそうなので、早めに採録させてもらいました。私がずっと書きたいと思っていたテーマですし。予定より長めになってしまったにもかかわらず会議をして予定を変更して月報に載せてくださった慶應義塾大学出版会の皆様に感謝しています。

さらにもう一冊、新潮選書で『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』という本を書きおろしていました。奇跡的に終わりました(まだ細部の最終作業中です。連休中ずっとこれをやります)。なお、当初の予定では、新潮選書としてはこれまでにない薄さにして、ブックレットにするという私の企画意図から、税込み972円となっていましたが、結局バリバリと書いて1.5倍以上になってしまったので頁を増やし、税込み1080円になりました

ものすごい勢いで執筆したので、終わった瞬間にパソコンが壊れてしまいました。マウスが動くが左クリックが効かないという、まるっきり物理的損傷・・・『イスラーム国の衝撃』を書く直前に思い立って導入したMacBook Air。最大限スペックを積んだところ非常に快適で、作業効率が断然上がりました。これで執筆も事務作業もブログ発信もSNS遊びも、同時にやって、まったく快適。本当によく働いてくれました。MacBook塚があったら持って行って供養したい。

ただいま古い予備のパソコンを引っ張り出して仕事していますので、以前よりずっと時間がかかります。

さて、3月末にアップしようとしていてできないでいたのが、金子光晴の文庫オリジナル・エッセー集への解説です。

池内恵「解説」金子光晴『自由について』中公文庫、2016年3月、247-260頁


『自由について – 金子光晴老境随想』(中公文庫)

中公文庫は金子光晴の代表作を多く出版してきましたが、今回は全集からあまり知られていないコラムを選んできて、文庫オリジナル編集。『自由について』というタイトルも今回のオリジナルです。編集さん頑張りました。

3月末に発売されましたので、まだ本屋にあるでしょうきっと。

このブログで以前、マレーシアに行ったときに金子光晴の話を書いたのが、編集者の目に留まったようです。

私も未読の、随想や聞き書きばかりでしたら、軽く読めるようでいて、端々に面白いところがある。面白いところを浮き立たせるように解説を書きました。かなり読み込んで書いたので、ぜひ手に取ってお読みください。

金子光晴が現代に生きていたら何て言っただろうな・・・と思うことが多いです(まあ、ボケてズレて見当はずれなことを言ったんではないか、という危惧の念もないではないですが、それも含めて。現代に甦るにして、何歳の人間として甦るかによって変わってきますね~)。

金子光晴を現代の話題に引き付けて読む、というか、現代の話題は実は過去にとっくの昔に議論されていて、それに対する金子の立場が筋が通っていて面白いのだ、というところが論旨です。

例えば解説の冒頭はこのように書き出しました。

「大学の文学部とはいったい何のためにあるのだろう。法学部なら役人を養成する。経済学部なら企業社会に人員を送り込む。このように、日本の近代の大学は、最初からそういった職業教育的機能を担ってきた。それでは文学部は何を養成するのか。これが分からないから文学部の学生は悩む」(247頁)

この自問にどう自答しているかは解説をお読みください。

人文系の意義とか、言論のガラパゴス化とか、今話題になっていることの多くについて、金子は独特の立場を示していてくれる(ように読める)のだが、これらのエッセーに一貫するテーマは、リベラリズムとヒューマニズムに対する問いかけだろう。そして、それを日本でやることについての、覚悟と諦めが、交互に去来する。そこがこの本の読みどころだろう。

不羈の精神の持ち主である金子の、軍国主義と戦争への批判は、おそらく生理的な嫌悪に根差したもので徹底的である。軍国主義の暴虐を生々しく描くことにかけて実に巧みである。しかしそれは軍と軍人に責任を押し付ける通俗的な議論ではない。日本の軍国主義が日本社会の底流に根差したものであったところにこそ、金子は深い恐れを抱いている。

「戦争中、もし日本が占領され、日本でレジスタンスをやったら、隣のおばさんはかくまってくれなかったと思う」(134頁)という日本社会の一般庶民への不信感と、「いわゆる進歩思想というものもあったが、あれ、個人の出世の綱でね」(同―135頁)という知識人・言論人への冷めた評価は対になっている。

「最近~になった」という話は、そういう話を作らないと商売にならない人たちが言っていることなので、たいていあてにならない(学者の言うことを信じると毎年「分水嶺」「ターニングポイント」が来ていることになってしまいます)ということがよく分かる本でもあります。

例えば次の文章なんて、金子が今の時代に生きていて、ぼそっとつぶやいたようにしか見えませんね。

「今日の若い世代がもっている『正義派』の気まぐれともおもえるイノセントぶりが、相当な来歴のある人生のタレントたちを屡々、コロリとまいらせる。不信に蝕まれてない新しい世代が、正面舞台からせりあがってきたという、期待の満足からとも察しられるが、むしろ、その感激のほうがイノセントな光景であろう。若さだけに惚れこむなんて、危険千万なことだ」(55頁)

「SEALs萌え」の作家・大学教員・メディア企業社員などにぜひ読んでもらいたい一文である。

石原慎太郎のスパルタ教育論の批判(「ぶんなぐられ教育」198-199頁)とか、時代の変わらなさにクラクラする。

これらはほんの一部分で、本文はもっと多岐にわたって論点が出てきますから、是非お手に取ってみてください。連休中ぐらいまでは本屋にあると思います。

ところで『自由について』は、その前の月に刊行された『じぶんというもの』とセットになっている。こちらは若者論、というか金子の晩年に若者向けに(『高一時代』などの媒体に掲載されたものが多い)に書いたコラムを集めたものなのだけれども、媒体の性質上求められる説教めいた話は早々に切り上げて、一向に生臭さが抜けない自分自身について、つまり「老い」についての自省録になっている。若者論こそ最大の老年論で、老年論こそが若者論になる、というのはもしかしたら鉄則かもしれません。読まされている方は何が何だかわからないだろうというのもまた鉄則。時間は一方向にしか流れませんからね。

『じぶんというもの』への解説は、ヤマザキマリさん。本文を原作に短編漫画化。それ目当てに勝っても損はないです。金子の若者論を通じた老年論の、鮮烈なコントラストの哀切さが、絵で浮かび上がってくる。これこそ文庫オリジナル。


『じぶんというもの – 金子光晴老境随想』(中公文庫)

【寄稿】ティラン海峡2島の帰属をめぐって『中東協力センターニュース』4月号に

寄稿しました。リンクをクリックするとPDFが直接ダウンロードされます。

池内恵「エジプト・サウジのティラン海峡二島『返還』合意」《連載「中東 混沌の中の秩序」第5回》『中東協力センターニュース』2016年4月号, 9−20頁

今月号に掲載の他の論考はこちらのページから。

今、次の本(正確には次の次に出る本)の最終段階で大幅にテコ入れするべく、とてつもなく忙しくなっていますので、短い時間で急いで書きました。サウジの「紅海国家化」という若干の(かなりの)憶測が入っています。お楽しみください。

今回は、いつにも増して日程が苦しく、常識で考えれば書けないのですが、昨年4月の『中東協力センターニュース』の月刊化を機会に、それ以前のように不定期連載ではなく、四半期に1回必ず書いて載せると自分に課してしまったので、とにかく書きました。それによって自分の本が遅れたりすることがなければいいのですが・・・

「中東 混沌の中の秩序」と題して連載をリニューアル・定期化してから、今回は5回目になります。

(第2回をブログに掲載し忘れていたことに気づいたので、以下に連載リニューアル以来の、前回までのタイトルとダイレクトリンクを貼っておきます。また、それ以前の連載「アラブの春後の中東政治」については、当ブログの項目を参照。2012年の6月から延々続いています。このブログを「中東協力センターニュース」で検索するとさらに出来てます)

池内恵「中東情勢を読み解く7つのベクトル」《連載「中東 混沌の中の秩序」第1回》『中東協力センターニュース』2015年4月号

池内恵「4つの内戦の構図と波及の方向」《連載「中東 混沌の中の秩序」第2回》『中東協力センターニュース』2015年7月号

池内恵「ロシアの軍事介入による「シリアをめぐる闘争」の激化」《連載「中東 混沌の中の秩序」第3回》『中東協力センターニュース』2015年10月号

池内恵「サウジ・イラン関係の緊張―背景と見通し」《連載「中東 混沌の中の秩序」第4回》『中東協力センターニュース』2016年1月号

「教育歴」を固定ページに追加しました

新年度の授業が順次始まっています。

過去の講義を振り返りながら、新しい課題を盛り込んだり、抜本的に見直したりといった作業を進めています。

この機会に、ブログに新しい固定ページ「教育歴」を加えました。ページの上部のタブのプロフィール論文単行本と並ぶ位置に設置しました。プロフィールや論文リストは代表的なもの、簡略なものだけなので、いつか時間ができたら完備したものを掲載しようかと思います(が、とても時間がありません)。現状分析など、ウェブに掲載されたものをリアルタイムで反映する仕組みをつくって、このブログを見れば私の議論についてはポータルになるようにしたいのですが、極端な忙しさに紛れて道半ばです。

これまで私は本務校としては、「学部」に勤めたことがありません。アジア経済研究所国際日本文化研究センター(大学院は総合研究大学院大学国際日本研究専攻)→東京大学先端科学技術研究センター(大学院は工学系研究科先端学際工学専攻)と移ってきており、最初のアジア経済研究所は経済産業省系の独立行政機構(JETROと統合)のため授業はなし(アジ研に付設の開発スクール(IDEAS)はありますが、私は担当していませんでした)、その後も大学院博士課程のみの研究所に勤めてきましたので、文系の研究者には珍しく、学士課程の「学部」で教えることを主たる任務とした経験がありません。

しかし、学内の学部から依頼を受けて出講したり(学内非常勤)、他の大学から依頼を受けて集中講義で出講する(非常勤講師)ことはあります。

特に東大では、先端研に着任する以前から単発で教養学部や法学部・公共政策大学院で非常勤講師をしたこともありますし、東大内に来てからは学内非常勤で文学部(大学院人文社会系研究科と合併講義)・教養学部(後期課程)で授業を担当しており、今年度は法学部・公共政策大学院でも授業を担当しています。

また、東大内のプログラムとしては、社会人向けのエグゼクティブ・マネージメント・プログラム(EMP)に、第5期から現在まで続けて出講しています。

日本では中東・イスラーム研究は中世の歴史・思想研究が中心で、特に東大ではそうなのですが、それですと学生や社会人学生の現代中東・イスラーム世界への高まる関心に応えきれないので、先端研という少し離れた場所にいる私ですが、依頼を受ければなるべくお引き受けすることにしています。

(なお、学内非常勤に報酬はありません。もともと外部から来ていただく非常勤講師にも本当に本当に微々たるお給料しかお支払いできないのですが)

本務校・所属部局以外のいろいろなところで非常勤で講師をすることを繰り返すうち、どこで何をやったかわからなくなるといけないので、授業の準備をしながら、過去の記録を引っ張り出して、整理してみました。

こうして並べてみると、だんだん進歩しているように?見えてきますがどうでしょうか。

それよりも、中東やイスラーム世界に関する世の中の関心の量と質が、この間に決定的に変わりましたね。それは中東・イスラーム世界そのものの変化に対応しています。

学問の世界がその変化に適切に手対応して行っているか、その点でも考え直す必要がありそうです。

【寄稿】『ランボー3』のアフガニスタン 『うえの』4月号

取り急ぎ。寄稿です。

池内恵「『ランボー3』とアフガニスタン現代史」『うえの』2016年4月号、No. 684、32−34頁

『うえの』という月刊の小冊子です。「上野のれん会」加盟の諸店舗に行くと置いてあるのではないかな。定価200円と書いてありますが、部数がある限り、お客さんには無料でくれるのでは。たぶん。

あら、ホームページもあるじゃない、奥様。

表紙はこんな感じ。

うえの2016年4月号

内容は、アフガニスタン現代史を読み解くのに、意外にも、ハリウッド超大作バカ映画っぽい『ランボー3 怒りのアフガン』がかなりいいとこついている、という話。

『ランボー3 怒りのアフガン』といえば、、、

これです。

ランボー怒りのアフガン1

なんでこんな無粋な内容を老舗商店街の小粋な小冊子に書くことになったかというと、上野公園の東京国立博物館で「黄金のアフガニスタン−守りぬかれたシルクロードの秘宝−」展が4月12日から開催されるのです(〜6月19日)

『うえの』では東京国立博物館の特別展に合わせて、関連するテーマでエッセーを依頼するらしいのです。たしか以前にエジプト展の時にもご依頼を受けて書いています。それなので、せっかく再びご依頼いただいたので、つい引き受けてしまいました。

とてつもなく忙しくて気が遠くなりそうなのですが、アフガニスタンといえば『ランボー3 怒りのアフガン』を今見てみると、これが結構面白い、脚本がうまくできている、という話なら新たに調べないでも短い時間で書ける。この映画で1980年のソ連について語られていることは、2000年代以後のアメリカにもそのまま通じる、といった話を、授業とか講演とかでよくしていますから、その下調べに基づいて、一瞬でエッセーを書くならできるかも、と頭の端で考えて引き受けてしまったのです。実際に締め切り日になっても、その一瞬の時間も取れないので、また書くなら書くでかなり頭を捻らないといけないので、かなり焦りましたが。

老舗商店街の月刊小冊子といえば、代表的なのはこの『うえの』と、あと銀座の『銀座百点』がありますね。文系の文筆家にとってはこういうところで力を抜きながら芸を見せるのはある種、腕の見せどころ、と思うのですが、分野が大きく違う私などにもたまに書かせてもらえるというのはありがたいものです。

「守りぬかれた至宝」を壊す側の論理を書いたというのもなんですが、展覧会については学芸企画部長さんが文章を寄せていますし、黄金の秘宝の写真も掲載されています。

【寄稿】『東大教師が新入生にすすめる本 2009−2015』

刊行されました。

『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』東京大学出版会、2016年

以下、フェイスブックでこの本について掲載した文章をそのまま貼り付けておきます。

春の読書案内にどうぞ。

『東大教師が新入生にすすめる本 2009−2015』(東京大学出版会)。3月末に刊行されたところです。

恒例の、4月に東大出版会の雑誌『UP』が各分野の教師を抽出してアンケートをとって掲載する読書案内の、最新版の書籍化です。これまで二冊、文春新書で出ていたのですが、今回は東大出版が書籍化しました。私は2012年のところに執筆しています。

私の同年代の人も多くなっているなあ。

アンケートを集めただけではなく、本の後半の第II部は「学問の奇跡を読む」と題して12の分野について重要な著作を紹介したエッセーが載っている。

法学(井上達夫。『リベラルのことは嫌いでも〜』の先生)、政治学(宇野重規)、歴史学(宮地正人)、社会学(盛山和夫)といった執筆者が、それぞれの学問の核となる文献や、その分野が取り組んで抱えてきた課題などに切り込んでいる。

私などは「東大教師」と呼ばれるのも恥ずかしい、理工系の研究所にイスラム政治思想という「分野」を設定してもらったおかげで学内ベンチャー企業のように属しているだけなのですが、でも春は法学部・公共政策大学院と文学部、秋は教養学部で精一杯教師やるときはやってます。

同時に必死に研究所で成果出します。邪魔しないでください。善意のご依頼が切実に私の研究の阻害要因
になっていることもあります。

個別にお話ししているともう手が回らないので、非公開のセミナーを専門家やメディア向けに先端研でやろうか、などという話も温めています。そういったいろいろな形で世の中に還元していきます。こういった本もそういった努力の少しの一部です。

【寄稿】『週刊エコノミスト』の読書日記、今回は「文系学部廃止」を考える

5回に1回連載が回ってくる『週刊エコノミスト』の読書日記、今回は、「文系学部廃止」問題を考えております。

池内恵「『文系学部廃止』で考える大学の未来像」『週刊エコノミスト』2016年4月12日号(第94巻第16号通巻4445号、4月4日発売)、59頁


『週刊エコノミスト』2016年04月12日号

この連載の通常通り、Kindleなど電子版には収録されていません。

取り上げたのは、なのですが、コラムでは私の考えていることばかり書いてしまっているので、あまり書評にはなっていないかもしれません。著者は著名な研究者でありつつ大学行政にもかなり関与したことのある人で、実際に研究と教育をする立場からの改革論になっていますので、読んでみてください(関係ないがタイトルに「衝撃」とつけるのがプチ・ブームなのか)。

考えてみると、受けた教育は全く文系ですし、極端に文系人間だと思うのですが、私は職業人としてはほとんど「文系学部」にお世話になったことがありません。

国際日本文化研究センターという、文系の中の異端的な機関に勤めた事はありますが、日本の大学の普通の文系学部とはおそらく全く違う環境だでした。そもそも文系学問をやりつつ、文系学部の弊害を取り払おうというのが一つのコンセプトで出来た機関だったからでしょう。国文学や国史学といったベタでドメスティックになりがちだった文系学問を、無理やり世界や社会に開くことを任務としていて、その代わりに人文研究者にとって最適の環境を与える、なんとも独特の場でした。文系は文系だけど、「学部」でもないですし(大学院博士課程のみですので、「学部」ではないのです。業界用語で分かりにくいかもしれませんが)。

今は東大の中の先端科学技術研究センターというところで、イスラム政治思想の「分野」というものを作ってくれたので、かろうじて東大の中にいますが、もはや「文系」でも「学部」でもないですね。最初の就職先もアジア経済研究所という経済産業省所管の開発研究を行う機関でしたし。

考えてみると、東大で現代中東をやっている人は昔も今もほとんどいなくて、社会的要請といったものに実際に応えてくれるのは理工系の学部であったりする現実も、身を以て感じています。しかも、別にグローバル・ジハードがここまで大問題になった現在じゃなくて、全くそんなものが話題にならなかった2008年に迎えてくれていたんだからね(私は大学院では工学系の先端学際工学専攻を担当しています)。理工系の人の独特の勘とか先読み力とか行動力を文系学部の人もちょっとは見習って欲しいと、私としては思います。(こういうことはコラムには書いていません)

しかし文系学部の担っているものは確かに非常に大きくて、それは目に見えないかもしれないが、なくなると非常に困る。文系学部はもともと小さな資源しか配分されていないので、無くしたってたいした節約にならない。ただ、文系学部が今のままでいいかという、そうでもないんじゃないかという気がするが、それは外からいじって良くなるものでは全くない。知りもしない人、知ったつもりになった人たちが外からいじればいじるほど悪くなるといってもいい。私自身は文系学部の中で仕事をしたこともないのだが、外からの観察をボソッとつぶやいたのが今回のコラム。