連日、現在進行中の中東情勢の変動とその国際的波及と、それらを理論的に整理する枠組みと概念をパズルのように組み立てる作業を繰り返している。
そんな中、一瞬だけ目に付いた古典に帰ると、これまでに目に止めなかったところが目に止まり、重要性に合点がいっていなかった部分が浮き立ってくる。
そんな中から少しずつノートを作っていってみよう。
まずはモーゲンソー『国際政治 権力と平和』(原彬久訳)から。
モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)
台風の中、電車の中でこの本を読んでいて、特に注視して読んだのは、リアリズムの観点からの国際政治の把握が、法や道義的観点や、宗教的観点からの国際政治論とどう違うのか、それらの規範的な立場からの主張をどう扱えばいいのか、という問題について。
思想史という、規範的な価値とイデオロギーを必然的に含んだ対象を扱う領域に注目し、イスラーム教という宗教的価値規範を対象にしつつ、現実政治の中での思想と宗教の発現を対象化する作業をしていると、リアリズムと規範のせめぎ合いで視点がぶれそうになる。また、政治学の方法論には、人間を経済学的な合理的個人と仮定することで物事のある側面を浮き立たせるものがある一方で、それで捨象されてしまう集団や価値や非合理の要素に目を向けなければ説明できない現実の事象が無数にある。方法論をどの次元で設定するべきか。
それに対してモーゲンソーはどう言っているのか。上巻の最初の方。
「リアリストが他の思惟様式による邪魔だてに抗して政治的領域の自律性を守ろうとすることは、これら他の思惟様式の存在と重要性を無視することを意味するものではない。それはむしろ、おのおのの思惟様式がそれ独自の領域と機能を配分されるべきである、ということを意味している。政治的リアリズムは、人間性の多元的な概念に基礎づけられている。現実の人間は、「経済人」、「政治人」、「道徳人」、「宗教人」等々からなる複合体である。「政治人」以外の何物でもない人がもしいるとすれば、その人は野獣である。なぜなら、彼は道義的自制を全く欠いているからである。単に「道徳人」である人は愚者である。というのは、彼は完全に慎慮を欠いているからである。「宗教人」にすぎない人がいるとすれば、その人は聖者である。なぜなら、彼は世俗的欲望を全く欠いているからである。」(原彬久訳、上巻、66頁)