『週刊エコノミスト』の読書日記。13回目になります。
池内恵「中東の砂漠に最先端の都市ができる理由」『週刊エコノミスト』2015年7月28日号(7月21日発売)、57頁
今回も、Kindle版など電子版には載っていませんので・・・契約条件が合理的になれば同意したっていいんだけどなあ。
紙版はアマゾンからでも。
今回取り上げたのは、レム・コールハースの『S,M,L,XL+』。
レム・コールハース『S,M,L,XL+: 現代都市をめぐるエッセイ』(ちくま学芸文庫)
いい本だなあこれ。終わった時代の話ではなく、これから先を読むための本。
この本の原著英語版は1995年に出ているが、特異な編集と形で、難解な奇書というイメージだった。何度か増補されているが、写真も多く、1冊2.7kgという。
立体的に見ると、こんなんですよ。
体裁の問題もあってか、ずっと翻訳されていませんでしたが、ちくま学芸文庫で、テキストだけ、抜粋したり新たに加えたりして(だから邦訳タイトルに「 +」がついているんですね)、分かりやすく分類して並べ直して、コンパクトな文庫スタイルで刊行されました。最近の文章が加わえられていて、最新のグローバルな建築の状況が、さまざまな断片で切り取られている。ちくま文庫・ちくま学芸文庫は建築批評・都市計画ものに強いですから、適切な場所に収録されたと言えるでしょう。
レム・コールハースといえば、代表的な現代建築家であり、また『錯乱のニューヨーク』を書いた建築批評・思想家として知られる。理論家でありかつ実作家ということ。ただ、この二つを両立させることは難しい、ということは、例の国立競技場問題で明らかになったと思いますが。
『錯乱のニューヨーク』は、ニューヨークの都市計画と主要な建物を逐一分析した名著で、現代建築とアーバニズムを論じる際の必須文献になっている。古典です。
今回、合わせて増刷されたみたいなので今なら手に入りやすいと思う。大きな本屋だと平積みになっているところも見かけた。
一方『S,M,L,XL+』は、ニューヨークで完成したアーバニズムが世界に広がっていった、散っていった、その先での変容をスケッチしている。世界のあっちこっちに散っていって、その場所の地理・環境的、文化的、そして政治的・社会的文脈で、同じような形態のものでも、異なる意味を持って受容されていく。
欧米の著名建築家としてコールハースはあちこちで建築・都市計画に関与する。その際に見たもの、感じたものが断片的に描写され、積み重ねられる。
日本はその重要な一つの場所。ただし、シンガポールとか、ドバイとか、上海とかと並んだ「多くの中の一つ」であることも忘れてはならない。ちょっと日本語版編集では日本のところを重視しすぎている印象はある。ただし現代建築が世界に広がる過程での日本の役割とか特有の条件は、もっと注目され、客観視されていい。そのためにも役に立つ描写が多くある。
都市についての美学や倫理の基準を持つ・模索する批評家としてのコールハースと、実際に都市や建物を建てるには政治家やゼネコンの片棒担ぎをすることにならざるを得ない建築家としてのコールハースの矛盾は、あまり客観視されているようには見えないが、もみくちゃにされていく様子はよく分かる。すでに昔日の話となった対象を描いた『錯乱のニューヨーク』と、今現在のグローバルな「錯乱」の現場の話である『S,M,L,XL+』はセットで読むといい。
個人的に関心を持ったのはドバイ、アブダビ、ドーハなどのペルシア湾岸アラブ産油国の急激な都市形成。私、先日もアブダビに行ってきましたので。
ラマダーン中の夏で安いから、こんなところにも泊まりましたよ。世界で一番傾いたビル。湾岸にいくとこんなのばっかりです。
1990年代後半から現在までの湾岸の都市開発を、コールハースは最先端の事象として捉えている。また、湾岸的なモデルが中国の諸地域に広がりかけていくあたりまでの時代と段階を、この本では視野に入れている。湾岸的なモデルにはいろいろ起源があるが、一つはシンガポールだろう。これについては詳しく書かれている。
理論や歴史を見ることで、政治問題になった国立競技場問題についても、根本的な問題の構図が見えてくるのではないか。
国立競技場問題で、「変な形の、でかい建物」を作る人としてのザハ・ハディードが注目された。私はザハの建築が今の国立競技場の場所の環境に合うか合わないかについては判断できない。できてしまえば人の心は変わるし、できてしまうまでそれが受け入れられるものかどうかは分からないからだ。しかし日本の政治・社会的環境で建築可能であるとは思わない(実際無理だったが)。 あれは「政治権力が集中している」「国が新しくて土地が余っている(そして権力者が自由にできる)」「金が唸るほどある(そして権力者の手元に集中している)」という条件がないと建ちません。
だからザハ案での建築断念は政治的には必然なのだと思うが、しかしそのこととは別に、日本が「失われた20年」で内向きに過ごしている間に起こった、世界の現代建築の潮流を、国民の大部分が感じ取ることができなくなってしまっていること、要するにザハの提案に「驚いて」しまうことには、危機感を感じる。
国立競技場建設の「ゼロからの見直し」の結果として、日本が「ザハはもう古い」と言ってそれに対峙できる根拠や理念や力量を示せるのであればそれでいい。ザハにはそういう風に挑戦すべきなのであって、「気持ち」を忖度などしなくてよろしい。
もちろん、建たなくたって、契約書通りに、報酬は払わねばならないのだが。ただし有名建築家に頼むとはそういうことである。ザハの案でぶち上げたから話題になってオリンピック開催を勝ち取った、という要素はあるので、法外に見えても意味があるお金ではある。
ザハ案でオリンピック開催を勝ち取ったのに、ザハじゃ無くなったら国際公約違反かというと、そんなことはない。有名建築家を集めたコンペなんて、建築家が最先端な無茶を競って、結局無理と分かって建たない、なんてことは国際常識。コンペにはじめから建ちっこないものを出してくる建築家は多い。著名建築家の「名作」のかなりの部分は、コンペに出して評判になったが建っていないものである。
建っている場合は、独裁者が独断で命令して建ててしまった、という場合が結構ある。
途上国の場合は、ゼロから都市や埋め立て地を形成したりする場合に、目を引く建築が必要な時にザハ的なものが珍重される。
欧米先進国の場合は、都市の郊外がスラム化して危険な状態になっていたりする場合に、オリンピックを呼んできてそれを機会に再開発して、その際にザハ的な目立つ建築でイメージを変えようとする。ロンドン五輪はそのケースです。オリンピックを名目にした大規模再開発で、治安がよくなり、土地の値段が上がり、投資が来て新住民も入ってくればみんな得するでしょ、という話。うまくいっているかどうかは別にして、そういう目論見があってやっているから筋が通っている。
今回の国立競技場の場合、土地が無尽蔵にあってゼロから建てられる場所でもないし、スラム化している場所でもないからな・・・なんでザハなのかわからん。
しかし単に止めるといって、しかも、有力者がザハへの人格攻撃的な発言をしたり、ザハ的な現代建築を単に貶めるような発言を繰り返していれば、それは、国際的には恥ずかしい印象を与えるだろう。適合しないところにザハを選んだ方が悪い。そんなことはじめからわかっているでしょう?という話。国際的には、普通は上に立つ人の方が下の人より頭いいからねえ。日本人はそんなに頭悪いの?という話になってしまう。(日本には組織のために行う「バカ殿教育」と言うものがありましてね、それに適応できる人しか偉くならないんですよ・・・)
コールハース的な建築思想・建築史の前提があったら、あの場所にザハ、ということはあり得ないということが分かるはずなんだが。たくさん関与しているはずの文系の行政官にこういう感覚があれば止められた話だと思うが、ないんだなこれが。日本の行政官は忙しすぎて、国際的な視野で日本の歴史文化を見て次の一手を(かっこよく)打ち出すというような考えを温めている暇なく歳取ってしまう。
ただ、コールハースにしても、湾岸の都市開発のあり方に批判的なことを書きつつ、自分も職業上は加担せざるを得ない。その辺の矛盾も、コールハースの本を読みつつ、彼の実作(案)を調べていけば見えてくる。正解はないんです。正解はないが、国際的に共有されているある種の文法や歴史を踏まえて次の一歩を示すという筋が必要なんです。そうしないとメッセージにならない。
今後重要なのは、国立競技場をめぐる議論と決定の場を活発に公の場で行うことだろう。
「国際公約」などと言って、見えないものに縛られずに、「ザハ案を採用した、ザハらしい斬新な案が出た」「日本の建築家からも住民からも反対運動が出た、民主的な議論が沸騰」「現代における競技場建築とは何か、活発な議論が行われ諸案が競って出された」「その結果このようなものになりました」という経緯と結果全体が、オリンピックをめぐる日本社会の表象であり、そこに有意義なものが示されれば、「国際的な評価」は高まる。
要するに結局のところ日本からいいアイデアが出ればいいんです。有名建築家っていうのは無茶な案を出してそういう議論を巻き起こして世の中を前に進めるためにいるんです。そのために高いフィーを取るんです。こうやって話題になっているんだからザハ案を採用した価値はあるのである。百万人にやめろと言われてもこれをやる(人のお金で)と言い張れる分厚いエゴがないと有名建築家にはなれない。批判された方がいいんです。
世界のみんなが次に何をやればいいか模索してるんだから。広く世界を見て今最先端はどうなっているかを知りつつ、ちょっと前の最先端を高い金払ってもらってくるのではなく、こちらから新しい次の一手を出す。そうしてこそ初めて国際的に評価される。外をよく見るということと、モデルを外から持ってくるということはまったく違う。
日本でオリンピックをやり、コンペをやるなら、最初から「過去20年世界を席巻して、限界や負の側面も見えてきたザハ的な建築を超えるもの」を選ぶというコンセプトだと良かったんだが。だって世界中でいい加減飽きてるんだから。途上国の開発独裁を今さらやる気もなく後追いするみたいで、日本の現状を表象するものではなかったと思う。ただし単に「うっかりしていて無理な案を採用してしまい、建てられませんでした」というだけでは日本の元気のなさだけを表象することになってしまうので最悪だ。
そういう意味で、短時間で知恵を絞って実現していく過程が、日本社会の刷新にもなるといい。そういう意味でゴタゴタそのものを含んでドラマ化しコンセプト化して発信する人がいるといいのだが。