中東問題としてのギリシア危機

今話題のギリシア債務危機。「借金払わないなら出て行け」と言うドイツの世論とそれに支えられたメルケル政権、言を左右し前言を覆し、挙げ句の果てに突如、交渉提案を拒否するよう訴えて国民投票に打って出たギリシアのチプラス政権、それに応えて圧倒的多数で交渉提案を否決してしまう国民。確かに面白い対比です。ユーロ離脱の決定的瞬間を見たい、といった野次馬根性もあって、国際メディアも、中東の厄介なニュースを暫し離れてギリシアに注目しています。

ギリシア問題は、一面で「中東問題」であるとも言えます。もちろん狭い意味での現在の中東問題ではありませんが、根幹では、オスマン帝国崩壊後に近代国際秩序に十分に統合されていない地中海東岸地域に共通した問題として、中東問題と地続きであると言えます。

私はギリシアは専門外なので、深いところはわからないのだが、目に見える表層を、特に建築を通じて、素人ながら調べてみたことがある。

そこでわかったことは、現在のアテネなどにある「ギリシア風」の建物は大部分、19世紀に「西欧人」特にドイツ人やオーストリア人の建築家がやってきて建てたということだった。途中からギリシア人の建築家が育ってきて、ドイツ人やオーストリア人建築家の弟子として引き継ぎはしたものの。

1832年のギリシア王国建国で王家の地位に就いたのはギリシア人ではない。なぜかドイツ南部のバイエルン王国から王子がやってきて就任した。なぜそうなったのかは西欧政治史の人に聞いてください。

それで王様にドイツやオーストリアの建築家がついてきて、ギリシアのあちこちに西欧人が考える「ギリシア風」の建物を建てたのである。

例えば、「ギリシア問題どうなる」についてのBBCなど国際メディアの特派員の現地レポートの背景に(私は6月末の本来の債務返済期限のカウントダウンの際には日本に居なかったので日本のニュース番組でどう報じていたかはわからないが、多分同じだったと思う)必ずと言っていいほど映り込むギリシア議会。

これです。

ギリシア議会

いかにも「ギリシア的」ですね。

でもこれ、ドイツ人の建築家が19世紀前半に建てたんです。ドイツから来た王様の最初の正式な王宮でした。

近代西欧に流行した建築様式としての、古代ギリシア(+ローマ)に範をとった「新古典様式」の建築です。西欧人の頭の中にあった「古代ギリシア」を近代ギリシアに作っていったんですね。

ギリシアの「ギリシア風」建築の多くがドイツ人など近代の「西欧人」が設計したものであるという点については、マーク・マゾワーのベストセラー歴史書『サロニカ』を『外交』で書評した時に、本の内容はそっちのけに詳細に書いてしまった。

『外交』の過去の号は無料で公開されています。このホームページの第12号のPDFのところの下の方、「ブックレビュー・洋書」というところをクリックすると記事がダウンロードされます。『外交』に2年間、12回にわたって連載した洋書書評の最終回でした。

池内恵「ギリシア 切り取られた過去」『外交』Vol. 12, 2012年3月, 156-159頁.

現在の世界の歴史家の中で、学者としての定評の高さだけでなく、一般読者の数においてもトップレベルと思われるマゾワー。その「ギリシアもの」の代表作で、英語圏の読者には最もよく知られて読まれている『サロニカ(Mark Mazower, Salonica, City of Ghosts: Christians, Muslims and Jews 1430-1950)』は、第一次世界大戦によるオスマン帝国の最終的な崩壊の際の、現在ギリシア領のテッサロニキ=当時のサロニカが被った悲劇を描いている。サロニカ=テッサロニキは、アナトリア半島のギリシア人(ギリシア正教徒)と、現在のギリシア側のトルコ人(イスラーム教徒)の「住民交換」とその過程で生じた多大な流血の主要な場であった。

マゾワーの本はやっと翻訳され始めている。まずこれ。Governing the World: The History of an Idea, 2012の翻訳が『国際協調の先駆者たち:理想と現実の二〇〇年』として、NTT出版から刊行されたところです。

続いてNo Enchanted Palace: The End of Empire and the Ideological Origins of the United Nations, 2009『国連と帝国:世界秩序をめぐる攻防の20世紀』として慶應義塾大学出版会から刊行される予定だ。

さらに、Dark Continent: Europe’s Twentieth Century, 1998の翻訳が未来社から出る予定であるようだ

これらはいずれも、国連や国際協調主義の形成といった、国際関係史の分野のものだが、ぜひ著者の狭い意味での専門である、ギリシア史・バルカン史の著作にも関心が高まるといいものだ。

「中東」としてのギリシアについて、それがオスマン帝国の崩壊によって生まれたものという意味で中東問題と根が繋がる、といった点についての論考は、近く『フォーサイト』(新潮社)に掲載される予定です。

そんなにオリジナルな見解ではなくて、今日出席した鼎談でも、元外交官の中東論者が同じようなことを仰っていた。中東を見ている人がギリシアに行くと共通して思うんでしょうね。

『フォーサイト』に長く連載してきた「中東 危機の震源を読む」(『中東 危機の震源を読む (新潮選書)』として本になっています)と「中東の部屋」ですが、「イスラーム国」問題が人質問題として日本の問題になってしまったあたりから、個人としての日本社会向けの発言という意味もあって、その他いろいろ思うところがあって、個人ブログやフェイスブックを介した、読者への直接発信に労力を傾注してきた。

直接的な情報発信は今後も続けていこうと思うのだが、しかし、個人ブログで何もかも書いてしまうと、媒介となるメディアが育たない。私の議論を読む人は、私の議論だけでなく、ある程度は質と方法論を共有した他の専門家の議論にも触れて欲しい。

今後はもう少し、これまで縁のあった媒体を中心に、間接的な発信を再び強めていこうと思う。

そうはいっても、私の本来の任務である論文・著書の刊行義務がいよいよ重くのしかかってきているので、あまり頻繁にというわけにはいかないが。

そこで、ギリシアの中東としての意味や、建築史の搦め手から見たギリシア近代史といった、緩やかな話題からリハビリ的に『フォーサイト』への寄稿を再開してみようと思っている。

【今のうちに告知】8月8日に北大でシンポジウムに

今のうちにご通知。8月8日に北大でシンポジウムに登壇します。14時から17時にかけて行われる予定です。

「北海道大学公共政策大学院(HOPS)創立10周年記念シンポジウム」というもので、北海道新聞の共催ということもあって、かなり大掛かりな、また参加無料で、一般に開かれたものになります。

北大HOPS

タイトルは正式には決まっていないようですが、現代社会における宗教、といったテーマになりそうです。近く広報されると思います(私が遠隔地への出張で連絡を怠っていたために遅らせているような気がいたします)。

私以外に、北大法学部の辻康夫先生(西欧政治思想史)が予定されています。辻先生は多文化主義やマイノリティの問題に関心を寄せていらっしゃいます。

チャールズ・テイラー編著のこの古典的名作の訳者の一人でもありますね。

この本は、イスラーム教と近代社会との関係について突き詰めなければならなくなる時には結局ここに戻ってこないといけなくなる、と考えて私が当初から論文で引用してきたものです。その後色々な議論が出たように見えますが、新しいことを言おうとして認識はかえって混乱した面もあり、この本の重要性は今も変わっていないどころか、いっそう価値を高めています。

この本も絶版なのか・・・信じられんな。

「岩波モダンクラシックス」のレーベルで出しなおしていたようだが、これも版元品切れ

あのー、「クラシックス」といったレーベルをあえて作るのであれば、いくつかの厳選した本だけは恒久的に本屋で常に手に取れるようにしたい、在庫を常に持っておいて、必要とするひとがいればいつでも出荷できるようにしたい、というふうな志があるのかと思ったら、大部分が品切れじゃないですか。がっかりだな。

夏になるたびに私が一人で帰省していた母方の祖父の家では、『広辞苑』の各版を、「大変な苦労をして作ったものだから、時代の変化が後々になってから分かるから」と予約注文して買い支えて、大事に並べていました。他社の『大辞林』が出た時も、当然の義務のように買い支えていました。ところが出版社の経営上の一時しのぎのために、さほど改定もしていないのに「新版」を乱発して中身が薄くなっていき信頼を失っていった。そのことを「祖父のような人たちに対する背信だ」と怒っていた父を思い出します。幼い頃のそんなやりとりは、不意に蘇ってきます。

「クラシックス」も、一時的な商売のために使われるのであれば、結果的に市場での価値を失わせる、書物に対する背信と言えるのではないでしょうか。

最近は文庫が「本の墓場」である、などという実態を明かす編集者もいます。「文庫に入ればずっと本屋に置かれる」というのは過去の話で、いまや「文庫も新書も多すぎて本屋の棚に置いてもらえず、文庫になったらもう流通せず、出版した月だけ出版社の『資産』を帳簿上増やすのに使われて、やがて廃棄処分されて本としての生命を終える」ということです。

少子化・高齢化・デフレ・組織の高コスト体質で出版業界がヘタって粗製乱造本をばら撒きながら(不動産収入で社員に給料を出しながら)基本書を絶版にしてコストを浮かし、それによって学芸の基礎が深刻にダメージを受けていくのを感じます。最近特にそのことを感じます。

とりあえずこの本も中古で買っちゃいましょましょう。あと、もう今後は原書で読んじゃいましょう。Kindle版もある。

シンポジウムではイスラーム教とかキリスト教といった厳密な「宗教」に限らず、主権国家や民主政体や資本主義といった世界を成り立たせている制度への不信や不満や被害者意識が、ギリシアのEU緊縮案否決に見られる、集団の非合理的な感情の激発を誘い、先行きの見通せない状況を生じさせていることについて、考えてみたいと思います。

西欧政治史・思想史が分厚い北大ですから、このあたりについて歴史を踏まえた洞察が得られるものと、期待しています。

その意味で、企画を担い登壇もされる予定の吉田徹さんの『感情の政治学 (講談社選書メチエ)』は参考文献となるのではないでしょうか。

お近くの方はぜひ。

お近くでない方も、酷暑の時期に、涼しい札幌にぜひお越しになっては。北海道に来ちゃってシンポジウムは忘れてくつろがれてもそれはそれで。

詳細はまた通知します。

シンポジウムで登壇(築地本願寺・7月25日)

帰国して、毎度のことですが、はげしい時差の元で仕事しています。

7月25日に、東京の築地本願寺本堂で行われるシンポジウムに登壇します。入場無料・申込不要です。

シンポジウム「宗教と平和―中東とチベットの現実から問う平和への道―」2015年7月25日土曜日午後1時半〜4時
築地本願寺<東京都中央区築地3-15-1>
※入場無料、申込み不要

築地本願寺シンポ7月25日

チラシはここから

私以外のパネリストは、伊勢崎賢治さんと定光大燈さんです。