今日の読売新聞朝刊にコラムを寄稿しました。「イスラーム国」問題。文化欄ですから、日本の文化状況への批評ですよ。中東分析ではありません。念のため。
池内恵「「イスラム国」論 希薄な現実感」『読売新聞』2014年10月20日朝刊
たぶんウェブ上には今後一生出てきませんので、キヨスク・コンビニ等でお買い上げください。
新聞の文化欄のコラムは、ここ数年、打診を受けても「乗り気がしないなあ」と書いていなかったのですが、今回は、紙媒体とウェブ媒体を繋ぐ必要があるテーマでもあり、書いておきました。
ウェブに接していない読者には「イスラーム国」がサブカル的なネタになっているという現象そのものの存在を認識できないと思ったのか、編集部が長いリードをつけています。
逆に、ウェブに接し過ぎた人は自分たちがサブカルの枠にはまって現実を見ていないということに気づいていないわけで、それが今回のテーマなのですが、それが紙媒体にのみ載っていたらウェブ住人は未来永劫読まないわけで、仕方がないのでここで告知しておきます。
「イスラーム国」に行ってしまう人、良く知らずに「イスラームで超越」と脳内で期待する人、その中には一応名の通った「知識人(笑)」も交じっているという現象は、それに全く気づかず気づこうともしないタイプの読者(紙だけ読んでいる人)の社会があるからこそ生じてくるのだろう。
そういった破壊願望・超越欲求が脳内でショートしている人たち(「現状否定厨」とか呼んであげればウェブ言語で通じるのかな?)は、数は少ないとは思うのだが、(1)社会・経済状況の変化によって、以前より増えている可能性がある、(2)メディアの変化やそれに応じた国際関係の構造変化により、そのようなマイノリティの刹那的欲求が一時的に社会全体に影響を与えかねない(のではないか)、という点から、無視しておいてはよくないと思う。
そもそも中東研究とかアラビア語とかイスラーム教とかを専門でやる人は、信者にならずとも、とにかく現状は間違っていて自分は全く違う真理を発見した-と言いたいからそこに入ってきた、という人が多く、しかもそのような決定が高校卒業ぐらいで行われている(ほぼ大学入試の学部選択で決まるからね)ということから、あんまり信用できない判断だ。そんな年齢で社会の何が分かるというのだろうか?単に熱心にメディア情報の特定の部分に触れて「現状=悪」と思っちゃって「いすらーむ=超越」と期待しただけじゃないかな?
数少ないマイナーと傍からは見られる業界の専門家は、いざという時は国民的議論や認識、それに基づく選択に、大きな役割を果たしてしまう。だから、専門業界はどうせ変な人ばっかりだ、と放っておいてはいけないと思いますよ。専門業界が分業しつつ国民の一般意志の形成に資するサイクルを持っているのが先進国、そうでないのが後進国、という厳然とした区分があると考えた方がいい。日本はこの点で、どっちに入るかはギリギリ。
専門家は単なるオタクの変な人で世の中に恨みがあるので(でも国の予算とか業界仕切って一杯貰っているでしょ・・・)、専門能力が試される「いざ」というときには役立たない。仕方がないから専門性が特にない官僚がジェネラリストとしての経験から「おおよそ」のところで判断するから、国民の意志として選択される政策はそんなに間違ってはいないがピントが結構外れている、まあしょうがないでしょ、というところで我慢してきたのがこれまでの日本。
何かを「超越」したい人はこの構造を超越してほしいな。「あいつら全部だめだ、全部ぶっ壊せ」と「ラディカル」に語って自足するのではなく。
今、大学行政では「役立たない」文系への風当たりが強い(ことになっている)が、私は常に役立つものばかり大学が揃える必要は全くないし、役に立たないように見えることが「いざ」という時役に立つと思っているし、だから文系は必要だと思っているし、それを支えているような自負心もある(でも現に私を雇ってくれているのはバリバリ「役に立つ」ことばかりやると見られがちな「先端研」なんだよな・・・このアイロニーを理解できる文系人はいるのか)。
問題は「いざ」という時にも役に立つ気が全くない人たちが文系に集まりやすくなっていることだ。
「この世は全部ダメ」と本当に思っているのかネタで言っているのか傍から見ると区別がつかない、もしかすると本人たちももうよく分からなくなっちゃっている系の人々が、目測で数えるとだいたい8割ぐらいという、世間一般とは正反対の割合を占めている、イスラーム業界、あるいは思想業界一般について、私自身が職業上、付き合ってこざるを得なかった(といっても排除されていますが)ことにより、フィールドワークによって確かめた知見が今回のコラムには多く含まれております。