ウクライナ問題で、3月6日に、オバマ大統領は大統領令で対ロシア経済制裁の発動を命令。
これは日本にとってどういう意味を持つか。
私としては、米国の対イラン経済制裁に対する日本の反応を思い起こす。
イラン制裁と言っても、歴史的には2回あって、1回目が1980年のもの。1979年11月のテヘラン米大使館人質事件に対して、米国がイランに課した経済制裁に、日本や西欧諸国が追随した。日本政府は具体的には、1980年5月26日に公布され6月2日に施行された「輸出貿易管理令等の一部を改正する政令」というものでこの制裁を実施しています。
安保理決議はソ連などの反対で出なかったので、米国が主導した有志国による制裁に日本も加わった形でした。翌年に人質が解放されると、日本は即座に経済制裁を解除しています。
2回目は現在も続く、核開発疑惑をめぐるもので、2006年の安保理決議に根拠づけられているが、米国はそれ以上を求め、実際に自ら独自の制裁を課し、日本や西欧諸国、さらには韓国などにも強く追随を求めてきました。オバマ政権期には、米国が中心となる世界の金融システムからイランを排除するだけでなく、イランと取引を行った各国企業もまた排除する、という極めて厳しいものとなったわけです。これがイランの立場を変えさせ、昨年の米国への歩み寄りに結びついた、とオバマ政権は自賛しています。今後どうなるかは予断を許しませんが。
私自身は、古い方の、もう終わった方の、1980年の対イラン経済制裁について研究を進めている。先月、とある研究所のプロジェクトで、この問題についての論文予稿を提出し、報告会で発表して、今修正執筆中。近いうちに刊行されます。
報告会でも、「イスラーム思想史や現代アラブ研究をやっているのになぜこのテーマに?」と、聞かれた。
いろいろ偶然もあるのだが、根本的には、日本と中東との関係を見るには、単に現地の思想や政治を知っているという立場からは有意義な問題設定は出来ず、日本側の主要関心事とそれにまつわる活動を踏まえなければならないと思っている。
「日本外交は油乞い外交だ」と中東専門家は批判しがちだが、それは一面で事実だとしても、では油乞い外交には学問的な対象としての意味はないのか?油乞い外交以外の外交をせよ、というのは、往々にして単に「反米になれ」と言っているに過ぎない場合が多い。ではアラブ諸国やイランなどの産油国が反米なのかというと、そうである場合もあるがそうでない場合も多い(そちらの方が圧倒的に多い)。反米になったからといって、「油乞い外交」をしないですむという根拠はまったくない。それどころか米との同盟関係に依存する産油国は日本の足元を見たり距離を置いたりするだろうし、米国への敵対国すら、日本に接近する動機をなくして、冷たくなるだろう。米側陣営を切り崩したい⇒一番切り崩せそうな日本、という想定から日本に接近する訳で、「イランは親日だ」といった外交トークに手もなく転がされている中東論者は、無知なのかあるいは何か意図がある。
油乞い外交にはそれなりの意味があるし、そこに関係して日本の外交だけでなく内政も影響を受けてきた。日本と中東の関係史は、「油乞い」が中心であったという現実に基づいて検討されなければならない。「油乞いがいかん」と主張するのはその後でもいいはずだ。
こういった関心から、日本政治史やイランの外交政策や日米関係史といった、専門ではない不得意な分野にまたがる課題に挑戦している。その際には「資源外交」という大枠を立て、資源外交に関連したり影響を与えたりしてくる事象を幅広く取り上げている。
対イラン経済制裁、というのは資源外交という日本側の対中東外交の主要課題・関心事に、また別の外交・安全保障上の課題が障害となる事例として興味深い。
そして、今回の対ロ経済制裁も、本格化すれば、日米関係と、領土問題および資源外交上重要なロシアとの関係の相克という難題を日本外交に突き付けることになる。
日本による経済制裁という課題は、これまで国際関係論の大きな議論の対象にはなっていなかった気がする(私が知らないだけかもしれませんが)。
その理由は、おそらく、
(1)日本そのものが主導して経済制裁を行った事例が少ないこと(唯一、北朝鮮に対してはある面ではそういうこともあるかもしれません)。
(2)日本が加わってきた経済制裁は、国連安保理決議などに支えられていて、ほとんど議論の余地なく国際社会の多数の意見に従ってきたため、特に日本の立場を論じる意味がなかったこと。
(3)国連安保理決議がない場合も、その多くは米国主導の制裁で、多くの西欧諸国・西側先進国もまた同調していたものに限られること。端的には、経済制裁という言い方はあまりしないかもしれませんが、冷戦期に東側陣営に対して行ってきた貿易制限など、「敵」がはっきりしていた。米国と日本の共通の「敵」に対する制裁であったので、日本側の独自性や主導制はあまりなかった。
もちろん細部では日米間や、西欧諸国との間に、立場の相違や齟齬は常にあったでしょう。対ミャンマー経済制裁などは、あまり積極的に支持していたとはいえない日本の立場は、イギリスなどからかなり嫌がられて非難されていたものでした。
しかし多くの場合は日本が経済制裁に参加するということと、日本の外交・安全保障上の基本的立場にほとんど齟齬はなかったものと思います。
その例外が対イランでした。
それはイランの冷戦時代の特殊な立場と、日本のイランに対する外交姿勢の、外交政策全体の中での特殊性に関係しています。
イランは1979年のイラン革命までは明確に「西側陣営」で、革命後も独自の「イスラーム陣営」に属したものの、東側に移ったわけではありませんでした。
革命後のイランが「西洋」に対して表面上・レトリック上、厳しい、時に敵対的な姿勢を取ったことは確かですが、経済的には引き続き西側陣営との貿易を続け、決定的に断絶することはありませんでした。
その中で、特に日本は、西側諸国の中でもイランの原油に多くを依存してきました。
そのイランが、米国に対しては政治的に特別の敵対姿勢を鮮明にし、テヘラン大使館人質事件で決定的に関係を悪化させ、修復せずに現在まできた。
それによって、日本が維持したい対イラン関係と、日米関係がバッティングする構図が続いています。
なんとかだましだまし行ければいいのだけれども、「立場をはっきりせよ」と双方から言われるような状況が一番困るのです。
「経済制裁」は、「戦争」を除けば、もっともこの「立場の鮮明化」を求められる事態です。対イラン経済制裁は、日本の資源外交、そして資源エネルギー政策を大きく揺るがしかねないものです。
日米関係において、経済制裁への対応が日米関係を緊張させた事例の多くは、対イラン経済制裁であったのではないかと思います。
しかし冷戦終結後は、構図が変わってきて、イランは特殊事例ではなくなってきた。その筆頭はロシア。
ロシアも、その政治体制や統治の手法、国際関係のやり方は別にして、冷戦後は経済的には日本や米国と同じ陣営に来ているわけです。
日本はロシアとの経済関係を独自に深め、そして領土問題も解決したい。
それなのに米国が対ロ経済制裁に踏み切るとなると、日本の立場は苦しくなる。
冷戦終結後は、米ロの関係がそこまで悪化するなどという事態は、想定外だったのです。
そういう意味では、対イラン経済制裁の過去の事例は、かつては「特殊事例」だったのですが、今では、対ロ経済制裁の事例などにも通じる、一般的・普遍的な意味を持つ前例としてとらえ直すことができるのではないか?と(研究上は)期待しています。
もちろん一市民としては、経済制裁の実施や拡大などという事態が生じる前に妥協の地点が見いだせればいい、と願っています。
政府関係者はもちろん、走り回っているでしょう。
1979年から80年にかけての、対イラン制裁をめぐって、米国とイランの板挟みになり、西欧諸国の動向を必死にリサーチしていた政府関係者の動きの詳細な資料を過去1年ほど読んでいたので、現在の動きもなんとなく想像できます。
安倍政権は米国の動きに完全には同調していないようですし、NSC谷内局長が近日中にロシアに派遣されるようです。【安倍首相の発言】
米国とロシアの間で日本がどのような立場を見出すか、重大な局面と言えます。
(ウクライナ問題については、トルコからの視点なども含め、いろいろ考えたことを書いてみたいと思います。前回はこれ)