【寄稿】シリア難民に対する西欧の倫理的義務とは

8月末から9月初頭にかけて、シリア難民の波が、難民申請受理の条件を緩めたドイツを目指して殺到しているのが国際メディアで伝えられる。

これは私がここのところ難産の論文で理論的に取り組んでいる、中東の過去5年間の急激な変動の、国際社会に及ぼした一つの帰結だが、それによって今後生じる西欧社会そのものの変質や摩擦といった別の問題を引き起こしていくだろう。

根本原因であるシリア内戦の構造については多くが語られてきたが、必ずしも理解が浸透しているとは言えない。シリア問題をイデオロギー的な争点として議論することで、実態がぼやけてしまっている。まさにイデオロギーに立て籠もって「三分の理」を主張して欧米諸国を牽制しつつ、あとは実力行使で乗り切るのが中東の諸政権の基本姿勢だが、そういった中東の独裁政権の手法で問題が解決できなくなったので、ここまで長引いている。アラブ人は独裁政権に従っていればいい、という前提に立つ外部の「解決策」は、当のアラブ人がそういうつもりになっていないのだから実現しない。そして独裁政権に従えと外から強制することは誰にもできない。せめて「偽善」で黙認するだけであるが、黙認されるほどの実効支配をアサド政権が行いえなくなって久しい。

西欧社会が難民に対して、人道主義の理念から、また「良きサマリア人」たるべしという信念から手を差し伸べていることには、深く敬意を表したい。ただし、西欧社会が関与してくることで、シリア内戦に意図せざる効果をもたらしてしまいかねないことにも注意する必要がある。

西欧諸国がシリア難民を積極的に受け入れることで、シリアから、特定の地域や特定の民族や階層の人たちが一層大規模に、まとまって流出することが予想される。そうなると、シリアの人口構成が恒久的に変わる、実質上の「民族浄化」を進めかねない。

もちろん、難民の中にジハード主義者などが意図的に潜入すれば直接的な紛争の発火点となり、対立を帰って激化させかねない。

根本的な解決は、シリア内戦を終わらせ、難民たちが戻って経済生活を営めるようにすることである。これについて、ポール・コリアーの論考が簡潔に指針を示していて参考になる。『フォーサイト』の「中東通信」に急ぎ要点を解説しておいたので、ここに再録する。英語の文章の教材としてもいいのではないかと思う。

 

池内恵「『汝、誘惑することなかれ』−−−−西欧の本当の倫理的義務とは何か(ポール・コリアー)」『フォーサイト』《池内恵の中東通信》2015年9月8日 15:46

シリア難民のドイツへの大量到着で、ある種のカタルシスが西欧には湧いているが、やがて深刻な現実に直面せざるを得ない。

「最底辺の10億人」のポール・コリアーが7月に書いていたことを改めて読んでみる。

Paul Collier, “Beyond The Boat People: Europe’s Moral Duties To Refugees,” Social Europe, 15 July 2015.

Around 10 million Syrians are displaced; of these around 5 million have fled Syria. The 5 million displaced still in Syria should not be forgotten: just because they have not left does not imply that their situation is less difficult: they may simply have fewer options. Genuine solutions should aim to help them too. Of the other 5 million who have fled Syria, around 2 per cent get on boats for Europe. This small group is unlikely to be the most needy: to get a place on a boat you need to be highly mobile, and sufficiently affluent to pay several thousand dollars to a crook. A genuine solution must work for the 98 per cent as well as for the 2 per cent. Most of these people are refugees in neighbouring countries: Jordan, Lebanon and Turkey. Giving these people better lives is the heart of the problem.

「シリアの難民500万のうち、ヨーロッパに向かって海を渡るのは2%だ。残りの98%はシリアの周辺諸国、ヨルダン、レバノン、トルコなどにいる。また、シリア内部の避難民が別に500万人いる。そちらも支援するべきだ。ヨーロッパにたどり着けるのは比較的裕福な層だ」といった基本構図を指摘している。

ヨーロッパにたどり着く人数が500万人の2%にあたる10万人で済むかどうかは今後の政策次第だが(すでにこの数値を突破しているようにも見えるが)、まさにコリアーが提起するような、周辺諸国での支援と、シリア内戦の終結後の帰還・経済再建の支援が行われなければ、そして安易にヨーロッパで受け入れるという印象を与える発信がなされれば、爆発的に増えるかもしれない。コリアーは「汝、誘惑する(tempt)ことなかれ」という旧約聖書のモーゼへの十戒第7を引いて、安易な人道主義による受け入れを戒める。

The boat people are the result of a shameful policy in which the duty of rescue has become detached from an equally compelling moral rule: ‘thou shall not tempt’. Currently, the EU offers Syrians the prospect of heaven (life in Germany), but only if they first pay a crook and risk their lives. Only 2 percent succumb to this temptation, but inevitably in the process thousands drown.

要約すると、「援助の手を差し伸べることは義務だが、同程度に『汝、誘惑することなかれ』という義務にも従わないといけない。2%の比較的裕福な層に、ドイツに行けば天国が待っているかのような印象を与えて誘惑して、ならず者に法外な手数料を払って命を賭して渡航するという誘惑に身を委ねさせ、数千人に命を落とさせてはならない」ということ。