『中央公論』4月号の鼎談で「イスラーム国」問題が米欧と国際秩序に及ぼす影響を

『中央公論』4月号(3月10日発売)に鼎談「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」が掲載されています。

夥しい数の「「イスラム国」とテロ」的な特集が(ピケティ特集と並んで)、各紙で行われていますが、この鼎談では、編集部の当初の意図がどうだったのかは知りませんが、それらとは違う次元で考えています。国際秩序を形成する理念と実効性を提供してきた二つの極であるアメリカと西欧、およびそれらが近代世界に示してきた国際秩序は、「イスラーム国」の台頭によってどのような挑戦を受けているのか。国際秩序は今後どう変わるのか。まだ見えない未来を見ようとしています。

「イスラーム国」の「衝撃」とは結局、国際秩序に対する理念的な挑戦なのだろうと思います。私が時差ぼけでくらっとしたりしていて迷惑をかけましたが、貴重な機会となりました。

ピケティに対するまとまった批判的検討の特集も、必要なものと思います。明らかに、日本の「格差」とアメリカとは異なり、西欧とも異なります。そして数で言えば世界の大多数をしめる途上国とも異なります。

読売新聞の電子版では『中央公論』のピケティ検証特集のうち、森口千晶・大竹文雄対談を取り上げ、日本の場合は、年収750万~580万円という(米国で言えば感覚的には「中の中」ぐらい)の収入層が、所得上位5~10%に相当することを示し、この層は実際には増えているという根拠から、ピケティの議論を表面的に日本に当てはめることはできず、ピケティの処方箋も日本では有効でないという可能性を示しています。これは頷ける議論です。

「日本「年収580万円以上」増加…米と構造違う」Yomiuri Online 2015年3月10日

もちろん、日本にも(メディアや扇動論者の無根拠な議論を別にして)、なんらかの「格差」が認識されており、それを支えるなんらかの現実があるのでしょう。格差には絶対的な富や機会に関するものと、格差をめぐる認識とその認識が顕在化する条件に関わるものの、両方あります。

そもそも580万円−750万円の所得層が上位の5−10%の位置にあるということは、欧米と比べて日本の家計がそもそもそんなに豊かではないという基礎的な制約条件でしょう。少なくとも、上位1%が莫大な富をかき集める米国とはかけ離れています。「ほどほどの豊かさを分かち合う」形の分配が上位の収入層にはあると言えるのかもしれません。その場合、歴史上のある地点では、「金持ちでもほどほど」「ほどほどの人がけっこういる」ことを社会の多数が是として、将来に自分あるいは自分の子孫がその域に達することができると予想できればそれで「格差」認識は生じなかった可能性もあります。逆に、「上位」に入っている人でも過剰な犠牲を払わないとその経済水準に達することができず、その水準を将来にわたって維持することに大きな不安がある場合は、「中間層の消滅」という、データ的に正確かどうか分からない認識・危機意識も生まれるでしょう。

そして、「ほどほどの」上位10%とは別に、貧困すれすれの下位の収入層がどれだけ増えているかが、「格差」問題で重要になるのは当然です。しかしこれも正確に測定するのは困難ではあります。高齢化が進むと多くの世帯は収入が減りますので、貧困家庭が続出しているように見え兼ねません。

若年層に下位の収入層と「上位」(が何を指すのか通常は明確ではありませんが)との間に、世代を超えて恒久的に移動が不可能な障壁があったり、埋められない文化的な差異があるか生まれている場合は、格差社会、あるいは「階層社会」としての認識が妥当となるでしょう。

もし「上位5−10%」がこの程度の収入層でそれがまあまあ増えており、同時に下位の収入層も増えているのであれば、根本的に、日本は欧米諸国と比べて収入面であまり豊かではないということになるのではないでしょうか。「清貧」と「ジリ貧」の違いは、多くは将来に対する希望の有無やそれによって規定されるパーセプションによります。

日本社会の経済階層構造が「金持ちもタカが知れている、多くがジリ貧」ということになるのであれば、ピケティに託して語られる凡百の格差社会論が漠然と提示する「金持ちから取れ」という話ではなく、別の対策を真剣に考えないといけません。「金持ちから取ってこい」と言っても単に無い袖は触れなかったから取ってこれなかった、ということになり兼ねません。そういえば国の財政では「埋蔵金」なんて話もありましたね。結局なかった。

これまでもみんなで分かち合っていたところ、分かち合うパイが減ってきたので苦しくなった、というだけなのであれば、やはりパイを増やすように努力しないといけないのではないでしょうか。「パイを増やさないでいい」という主張が通れば、日本にそれなりにいる「ほどほどの金持ち」は「清貧」で耐え忍んでデフレスパイラルに逆行し、下位収入層は次第に窮乏する、ということにしかならないでしょう。

格差あるいは階層の実態を見極めないと、適切な対策は取れないでしょう。

「イスラーム国」の問題も同じですね。

その意味で、目次に記されている、田原総一朗×古市憲寿「「イスラム国」とオウムの奇妙な相似」対談には、まだ読んでいませんが、大いなる不安を持って見守っているわけです・・・今雑誌が手元にないし確認する時間もないんだが、単に表面上「若者が・・・」というだけで「似ている」とか言ってないよね?大丈夫だよね?似ているというのであれば、せめて、仏教とイスラーム教のそれぞれの教義の中の政治や暴力についての思想史を確認した上で、オウムあるいは「イスラーム国」へ参加する「若者」はそのどのようなタイプの思想でもってモチベーションにしているかとか、調べてから言っているんだよね?参加する「若者」といってもアラブ諸国からなのか、西欧諸国からなのか、日本からなのか、区別してどれなのかきちんと分節化して議論している?

【訂正 3月13日】
実際に『中央公論』を手に取ってみますと、田原総一朗・古市憲寿対談のタイトルは「草食社会ニッポンの成熟と衰退」でした。「「イスラム国」とオウムの奇妙な相似」は、次の宮台真司論考「「終わりなき日常」が今も続く理由」に付いた副題(?)でした。ウェブの目次を見間違っていました。

読んでみると宮台論考はまさに、「似ている」論のオンパレードでありました。「社会学者」と名乗れば日本のことから類推して世界中の社会を語っていい、という日本のローカル慣行はやめたほうがいいんじゃないの?と思いました。しかしフランスをやっているという社会学者も、実際にはフランスの特定の先生の説を引き写した上で、安易に日本との類推をしていることがシャルリー・エブド紙事件の際の議論で露呈したので、より広く深い日本の知的社会の問題かなと思います。

なお「草食社会ニッポン・・・」の方にもやはり、オウムの話をしながらなし崩しに「「イスラーム国」に参加する若者」という話になり、あれこれ想像して茶飲み話している部分があります。それでも古市氏の「僕は日本人はISILにあまり行かないんじゃないかと思う。」という議論は事実に即していると思います。これは古市氏の議論の流れからは、そうならざるを得ないし、実際にそうなんだが。【付記終わり】

こういったジジ&ジジ殺し対談にも、日本の社会と言論の現状と未来の何かが表出されているとは思う。

それはともかく、最近の中央公論活性化してきていると思うので、是非読んでみてください。

池内恵×中山俊宏×細谷雄一「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」『中央公論』2015年4月号(3月10日発売)、92−101頁

中央公論2015年4月号鼎談「イスラム国」拡散するテロ