コメント『毎日新聞』1月10日付朝刊

昨日1月10日の『毎日新聞』朝刊に掲載されたコメントをこのエントリの末尾に貼り付けておきます。1月9日付の『産経新聞』へのコメントと重なるところがありますが、『毎日』の方では、今後の展開を中期的な時間軸で捉え、「政教分離を明示的・意識的に受け入れる」層と「政教分離を拒否して過激化する」層が分化する可能性を指摘しています。もちろんその真ん中で迷う人が多数と思いますが、明確にこの分化が外からも内からも促進されるだろうと予想しています。「そうしてはならない」という議論が正しくないと考えるのは、現実にそうなるであろうという現状分析上の見解に加え、イスラーム教の教義は政教分離を認めていないし、解釈によって認めることは極めて困難であるという前提を認識していないことからくる誤った(機能しない)処方箋であると考えるからです。

「イスラーム教」と「イスラーム教徒」は明確に分けてください。イスラーム教の場合、神の啓示した文言は不変なので、明文規定にあるものを、イスラーム教徒が変えるということはできません。「イスラーム教では〜だ」と私が書くときは、「イスラーム教徒の全員がそう考えている、行動する」ことは意味しません。ただし、イスラーム教の教義上、「イスラーム教徒が批判したくてもできない要素」であることを意味します(実際には世界全体の大多数のイスラーム教徒はそのような根本的な要素を批判しようとは思っていませんが)。

今回のような「宗教への挑戦者を制圧するジハードおよび勧善懲悪」といった概念は、個々の信者としては、自分が実際に行うわけではない場合も、他の信者が実施することを制止する教義上の根拠は脆弱です。現実的にも、阻止すれば自分も背教者として糾弾され、脅かされる可能性が高いにもかかわらず、なおも必ずジハードや勧善懲悪の実施を阻止しろ、とイスラーム教徒に要求することはできません。歴史上も今もイスラーム教徒は戦ってばかりいたわけではないのですが、それは「ジハードをしてはいけない」という教義があったから戦っていなかったのではなく、ジハードを「しなくてもいい」という法学解釈で戦わないことを許してきたのです。現在は、そのような解釈を行う穏健な宗教者の言うことを聞かない人が多くおり、コーランやイスラーム法学の支配的な学説を引いて強硬な解釈を行う宗教者が多く出てきて、彼らの影響力が抑えがたくなっています。根本的な教義を引いてくるだけに、穏健な解釈をする側としては論駁することが難しく、うまくいっても「見解の相違」に持ち込むしかないのです。その場合も「ジハードを阻害する者へもジハードを行う」と名指しで攻撃される危険があるので、どうしても発言は抑制的になります。穏健派の宗教者の非難声明がどうしても煮え切らない印象があるのはこういった理由があります。

強硬な解釈の余地がなくなるように、根本的な教義を変えようとすれば、とてつもない宗教改革が必要です。そもそもそのような宗教改革を世界全体のイスラーム教徒の大多数が現在は望んでいません。多数派として住んでいる圧倒的多数のイスラーム教徒にとっては現行の法体系でさほど支障がないのです。もしフランスのイスラーム教徒だけが変えようとしても変えられません。

フランス人となっていて、教義は自分の力では変えられないが、自分自身は政教分離を受け入れるという人は多数います。「イスラーム教は政教分離をしないことが教義なのだから、個々のイスラーム教徒に政教分離を強いるのは抑圧だ」との見解がフランスでも社会的合意として取り入れられれば、イスラーム教徒でかつ政教分離を志向する人は、背教宣告に怯えなければならなくなり、自由を著しく侵害されます。サウジアラビアやエジプトではそれでも構わない(かどうかわかりませんが、そうしておきましょう)としても、フランスでもそのような原則を導入しなければ差別だ抑圧だ、という主張を私はいたしません。なお、露骨に政教一致を主張するイスラーム教徒をフランス社会は受け入れないでしょう。それを「差別だ」と糾弾することは、フランス社会の成員でない私にはできません。

「フランスのアラブ人には政教分離に賛同している人もいる」という議論で、イスラーム教の解釈は実は世俗主義に親和的だから、問題視してはいけない、批判してはいけないと議論する人がいますが、逆です。「フランス国民となるためには政教分離してください」と要求し続けてきたので、イスラーム教の教義では許されにくいにもかかわらず、一定数が政教分離を受け入れてきたのです。イスラーム教の教義を一切勉強せずにフランスのムスリム問題を語るような人が、話を混乱させています。

下記がコメント本文です。

「クローズアップ2015:仏週刊紙襲撃 「自由」と「信仰」深い溝 池内恵・東京大准教授の話」『毎日新聞』2015年01月10日 東京朝刊

 ◇価値観の摩擦続く−−池内恵・東京大准教授(中東地域研究、イスラム政治思想)

 今回の事件は、西洋とイスラム社会の間にある根本理念の対立を顕在化させたと思う。西洋近代社会はキリスト教などの宗教の支配から脱し、神ではなく、人間が理性的に社会を作るという規範を作った。いわゆる政教分離であり、特にフランスでは革命を経て、神を批判しても罰せられない表現の自由を得た。

 一方で、イスラム教には聖典「コーラン」や預言者ムハンマドなどの宗教的権威を傷つけてはならないという教義がある。殺人は認めていないが、教義を守らない人には守らせなくてはいけないという考え方だ。

 西洋各国はイスラム教徒に対し、信仰は内面にとどめて公的には自国の理念や制度に従うべきだとしてきた。そのことが難しいことに薄々気づいていたが、今回の事件で問題が表面化し、正面から向き合わざるを得なくなった。個々の人間は平等だという理念に従い、多くの移民を受け入れてきたが、イスラム諸国からの移民の増加を抑制しようとする動きは強まっていくと思う。一方で、メディアも多少萎縮し、挑発するような言動は一時的に減るのではないか。

 西洋のイスラム教徒の間では政教分離に同調する人と、教義に忠実で過激化する人の分裂が加速するだろう。歴史的にみて西洋が表現の自由で妥協する可能性はなく、イスラム世界が政教分離を受け入れることも近い将来には実現しない。西洋各国の国内での摩擦は今後も続くだろうし、今回のような事件が再び起こる可能性はある。(談)