ISISがモースルを制圧し、ティクリートを陥落させてさらに南下するなか、モースルとバグダードの中間地点の少し南、バグダードの北部125キロに位置するサーマッラーが焦点となっています。
「地図で見る中東情勢」の第3回、今日は簡単な地図から。あとは写真も見てみましょう。
北部でイラク政府軍が崩壊して逃走する中、マーリキー政権は政権に中枢を誓う部隊の引き締めと、政権支持層の多いシーア派系市民の武装民兵化によって対抗しようとしているようです。
13日の金曜礼拝で読み上げられた、シーア派宗教指導者のイラクでの最高権威のシスターニー師による声明では、義勇兵となって首都防衛にあたるようにと説いています。これに応じて義勇兵に登録する人々の姿がイラク国営テレビなどでは盛んに流されています。
13日、マーリキー首相はサーマッラーを訪問し治安担当者と会議。前線で指揮を執った形です。
前日12日、サーマッラーでも、ISISからの脅迫電話に怯えて配置されていたイラク軍部隊がまとめて脱走してしまったようです。マーリキー首相はどの部隊を指揮しているのか。政権有力者の直轄部隊でも投入したのでしょうか。あるいは(同じことかもしれませんが)政権有力者傘下のシーア派民兵組織に頼っているのかもしれません。
中央政府からのテコ入れと、シーア派義勇兵の参入で、今のところ、モースル占拠後のISISの南下はサーマッラーで食い止められているようです。
サーマッラーは、住民はスンナ派(←「スンニー派」でもどっちでもいいです。名詞か形容詞かの違いだけ)の方が多いですが、シーア派で尊崇の対象となるアスカリー・モスク(Al-Askari Mosque)があります。
アスカリー・モスクは、シーア派(12イマーム派)の第10代・11代のイマーム(最高指導者)を祀ったモスクです。第10代がアリー・アル=ハーディー(アル=ナーキーとも呼ばれる)、第11代がその息子でハサン・アスカリーという名です。両者を「アスカリーのイマーム」とシーア派では読んでいます。
アスカリー・モスクは黄金のドームと、二本の黄金のミナレットを特徴としています。
アスカリー・モスクの元々の姿
出典:Al-Islam.org Ahlul Bayt Digital Islamic Library
スンナ派は、シーア派の独特の教義であるイマーム崇拝そのものを異端と考えています。しかしシーア派の王朝が支配していたり、サダム・フセインの世俗主義的で強権的な統治が行われている時代は、シーア派の教義を問題視して敵視する運動はほとんど表面化しませんでした。
それが、サダム・フセイン政権崩壊後、特に現行の新体制がスンナ派にとって不利な形で2005年末に成立して以降、宗派紛争の扇動が行われ、呼応するスンナ派勢力や、それに対して武装して対抗するシーア派民兵、露骨にシーア派側に立ってスンナ派をまとめて弾圧・排除するシーア派主体の中央政府の存在で、一気に問題が噴出しました。
2003年のフセイン政権崩壊直後から宗派紛争の可能性は指摘され、扇動もなされていましたが、危うい均衡が保たれていました。紛争の勃発の火をつけたのが、2006年と2007年に行われた、サーマッラーのアスカリー・モスクの爆破です。
この挑発に、シーア派側が民兵集団による報復で応え、中央政府軍・警察によるスンナ派全体への懲罰的政策で答えたことで、激しい宗派紛争に落ち込んでしまいました。
2007年から2008年に行われた米軍の増派攻勢(サージ)による硬軟両方の戦略で、一度は押さえ込みましたが、火種はくすぶっています。シリア内戦の泥沼化で足場を得たISISが再び宗派紛争を煽るためにここをもう一度攻撃すれば、象徴的な意味もあって全土に宗派紛争が再発しかねません。
2006年2月22日の第1回目の爆破では黄金のドームが大破。
ニューヨーク・タイムズ紙では前後を比較してくれています。
2007年6月13日の2回目の爆破では、残りのミナレットも破壊されました。
アスカリー・モスクは現在再建中で、昨年末の段階で、かなり完成に近づいていたようですが、ここで再び破壊されるようなことがあると、宗派間対立の感情を燃え上がらせてしまうでしょう。
サーマッラーは、バグダードに至る途中の要衝であると共に、象徴的な意味を持つ聖地です。そして、イラクの過去10年の紛争の中で、象徴を帯びた事件の記憶を抱えています。
マーリキー首相と政府軍は、地理的な重要性だけでなく、象徴的にも、ここの防衛を重視しているのではないかと思います。
もしISISがサーマッラーを超えてしまうと、後はバグダード北東郊外に位置するシーア派の貧困層が集まるサドル・シティまで一直線ですので、好戦的なシーア派民兵との衝突が予想されます。
ISISは、テロを多用するような本体部分の規模は、どう多く見積もってもせいぜい1万人と思います。中核メンバーは800人程度とすら本来は言われており、信念の堅い、出身地や居住地を離れて越境してでも転戦しようというメンバーはその程度ではないかとも思います。
それをはるかに超える人数が今参加しているように見えるのは、宗教的な政治イデオロギーを同じくするというよりは、マーリキー政権に失望し、敵意を募らせる各勢力が、ISISの軍事力や北部での一定の民心掌握力に惹かれて同調しているのでしょう。旧フセイン政権派の流れをくむ、旧軍人や、スンナ派の部族勢力などが、マーリキー政権の政策に反対して、ISISについているのではないか。
マーリキー政権が、強硬策だけでなく、米軍が2007年から2008年に「サージ(Surge増派攻勢)」で行ったような、スンナ派有力者を取り込む懐柔策を駆使できるかが問われています。
ペトレウス将軍の指揮した増派攻勢では、圧倒的な軍事力で制圧するだけでなく、スンナ派の土着の有力者・支配層の取り込みを行うことが一つの柱でした。西部アンバール県の部族有力者などを取り込んで(悪い言い方では賄賂を使って)、武装民兵のネットワーク「サハワ(目覚め)」を組織させ、アル=カーイダ系武装組織に立ち向かわせた。
2011年末の米軍撤退後、マーリキー政権がこの経験を放棄して、スンナ派の有力者や武装民兵組織の政府内への取り込みを行わず、逆に敵視したことが、ISISの伸長の要因となっていると見られます。
「サハワ(目覚め)」の一部の指導者が、マーリキー政権に従ってISISと戦うと声明を出しているという情報もありますが、どの程度の規模の支持があるのかわかりません。また、西部のアンバール県と、北部のニネヴェ県(モースルを含む)では事情が違うのではないかとも思います。
悪夢のシナリオは、マーリキー政権は懲りずに宗派間対立でシーア派民兵を駆使して勝ち抜くという選択をし、それをイランが支援してさらに影響力・支配を強め、中東から距離を置きたいアメリカ、イラン接近で外交成果を出したいオバマ政権が黙認して、結果として宗派紛争の激化の末にイラクがイランの支配下に入り、「迫害」「占領」に憤るアラブ世界から過激な義勇兵と資金が流れ込んで紛争がさらに悪化、というものです。
そうなるとは限りませんが、それなりに現実味があります。