「教育歴」を固定ページに追加しました

新年度の授業が順次始まっています。

過去の講義を振り返りながら、新しい課題を盛り込んだり、抜本的に見直したりといった作業を進めています。

この機会に、ブログに新しい固定ページ「教育歴」を加えました。ページの上部のタブのプロフィール論文単行本と並ぶ位置に設置しました。プロフィールや論文リストは代表的なもの、簡略なものだけなので、いつか時間ができたら完備したものを掲載しようかと思います(が、とても時間がありません)。現状分析など、ウェブに掲載されたものをリアルタイムで反映する仕組みをつくって、このブログを見れば私の議論についてはポータルになるようにしたいのですが、極端な忙しさに紛れて道半ばです。

これまで私は本務校としては、「学部」に勤めたことがありません。アジア経済研究所国際日本文化研究センター(大学院は総合研究大学院大学国際日本研究専攻)→東京大学先端科学技術研究センター(大学院は工学系研究科先端学際工学専攻)と移ってきており、最初のアジア経済研究所は経済産業省系の独立行政機構(JETROと統合)のため授業はなし(アジ研に付設の開発スクール(IDEAS)はありますが、私は担当していませんでした)、その後も大学院博士課程のみの研究所に勤めてきましたので、文系の研究者には珍しく、学士課程の「学部」で教えることを主たる任務とした経験がありません。

しかし、学内の学部から依頼を受けて出講したり(学内非常勤)、他の大学から依頼を受けて集中講義で出講する(非常勤講師)ことはあります。

特に東大では、先端研に着任する以前から単発で教養学部や法学部・公共政策大学院で非常勤講師をしたこともありますし、東大内に来てからは学内非常勤で文学部(大学院人文社会系研究科と合併講義)・教養学部(後期課程)で授業を担当しており、今年度は法学部・公共政策大学院でも授業を担当しています。

また、東大内のプログラムとしては、社会人向けのエグゼクティブ・マネージメント・プログラム(EMP)に、第5期から現在まで続けて出講しています。

日本では中東・イスラーム研究は中世の歴史・思想研究が中心で、特に東大ではそうなのですが、それですと学生や社会人学生の現代中東・イスラーム世界への高まる関心に応えきれないので、先端研という少し離れた場所にいる私ですが、依頼を受ければなるべくお引き受けすることにしています。

(なお、学内非常勤に報酬はありません。もともと外部から来ていただく非常勤講師にも本当に本当に微々たるお給料しかお支払いできないのですが)

本務校・所属部局以外のいろいろなところで非常勤で講師をすることを繰り返すうち、どこで何をやったかわからなくなるといけないので、授業の準備をしながら、過去の記録を引っ張り出して、整理してみました。

こうして並べてみると、だんだん進歩しているように?見えてきますがどうでしょうか。

それよりも、中東やイスラーム世界に関する世の中の関心の量と質が、この間に決定的に変わりましたね。それは中東・イスラーム世界そのものの変化に対応しています。

学問の世界がその変化に適切に手対応して行っているか、その点でも考え直す必要がありそうです。

ブログをリニューアルしました

ブログをリニューアルしました。

2014年の1月に、ふと思い立ってブログを立ち上げたのですが、その時は技術的な知識はまったくゼロ。

米国や英国の若手研究者が専門分野に絞ったブログを設定し、それがその問題に関するポータルサイトのようになって、大学に職を得ることもなく早々と第一人者として扱われていくのを見て、研究者にとって新しいやり方だなあと思って、自分でもやってみるか、と気軽に始めたのがきっかけ。

日本語のブログを読むことはほとんどなかったし、mixiなども使ったことがなかった。

そのため、どのようなサービスがあるのか、どのようなツールを用いるのかもまったく知らず。探したり調べたりする時間もない。wordpressとか一瞬は興味を持ったものの、ちょっと調べると、これは私の現在の生活では習得や管理・維持は不可能、と早々に諦めた。

で、研究室に居ついている、いえいえ長い間研究支援でお世話になっている某研究員に、発注したわけですね。どこで始めればいいか、調べて提案するように、と。

こちらが示した条件が、

(1)使い方がとにかく簡単であること。なーんにも知らんでもできるやつ。

(2)アホな大学生が読んでそうなところであること。

イメージとしては、日本全国の大学生が、レポート書けと言われた時に、適当にググったら出てくるようなものを提供しておけば、成果の普及にはいいんじゃないの?と思ったわけなんです(「ググったら出てくる」状態にするにはどれだけ技術的な仕掛けが必要かなんてことも知りさえもしなかった)。

そうすると、若干ミスコミュニケーションがあった感じもする某研究員の絶妙の提案が、「FC2」だったんですね。とにかく簡単だ、と。

今から考えると、ある意味で的確に、こちらの出した二点の条件を踏まえた提案だったんですね・・・意図してのことかどうかはともかく。

こちらとしては何一つ情報がないので、是も非もなくこの案を採用して設定してみたところ、確かに簡単。ブログについて何一つ知らなくとも始めることができました。

それが、『中東・イスラーム学の風姿花伝』旧バージョン(http://chutoislam.blog.fc2.com/)でした。

しかし予想外に、ブログへのアクセス数が上がって行ったんですね。元来が、じわじわと読者が増えている感触はあったのだが、昨年10月の「北大生イスラーム国渡航未遂」事件に「中田考」というコンテンツが加わって倍増。そして「人質事件」で爆発的にアクセスが上昇してしまい、あらゆるところで「読んでますよ」と言われるようになってしまった。ほんのイタズラのつもりで始めたんですが・・・

SEOとか一切考えず、というかそもそもこの言葉すらよく知らずに、ただ簡単だ便利だといってあれこれ書き込んでいたら、私の扱うテーマの方が勝手に「炎上」してしまってブログの読者が増えてしまったのですね。

おかげで、本を出して新聞・雑誌に書いているだけでは到底得られない読者の広がりを持つようになりました。ありがたいことです。

しかしそうなると、いつまでも無料のブログ、それもいわくつきのFC2でやり続けることは不適切ではないかとのご指摘を方々から受けるようになりました。そうはいっても私としては技術的な知識ゼロのままやってきたので、ブログ移行なんて無理無理。そのための技術を勉強するなんて時間も気力も、まったくない。本業の方で必死に勉強するだけでも溺れそうです。

原付バイクみたいなものが置いてあったから乗っかって試しに動かしてみたらすごい勢いで動き始めてしまい、気づいたらサーキットで先頭を走っていて、しかし実は止め方も降り方も知らない、というような状態(加速の仕方だけはなぜか知っているんですが)。

しかしいつまでもそうしていられないな、と思っていたところ、手を差し伸べてくれる方がいたので(わかる人にはわかる、「ほっともっと」の人)、こうして独自のドメインまで得て、こちらが理想と考えていたデザイン・構成で、再出発することになりました。

というわけで、新バージョンの「中東・イスラーム学の風姿花伝」(ikeuchisatoshi.com)をよろしく。

旧バージョンからの記事も移行を済ませておりますので、これまでの記事を全て読むことができます。右側のサイドバーの下の方のアーカイブやカレンダーをたどって読んでみてください。

唯一残念なのは、旧ブログでついたFacebookの「いいね」は、移行できないのです。記事のURLが変わりますから。歴史的事件に際して、数万の読者を得た記事などは、歴史的記録として「いいね」の数も保存しておきたいものですが、そうもいかないようです。

むしろ、そのような短期的に高い関心を呼ぶ「フロー」ではなく、積み重ねの「ストック」として、新ブログは長く読まれていくことを願っています。

そうはいっても、「フロー」としての活用も意識して、新ブログは設計しました。

画面右にツイッターの窓を設け、@chutoislamというアカウントから、英語の記事をリツイートする形で、中東・イスラーム世界に関する最新の議論を紹介していくことにします。絞り込んだ数のアカウントをフォローして、手が空いた時に見てささっとリツイートするだけですので、網羅的ではありませんが、世界の中東をめぐる議論がフラッシュニュースのように流れる趣向になっています。

また、カテゴリーを一つの記事に複数設定できるようになりましたので、新たに「本の紹介」というカテゴリーを設け、いろいろなテーマの話をしながらちょこっとずつ本を紹介してきたものを、ひとまとめにできるようになりました。本は厳選して紹介してきましたので、読書案内にもなっているかと思います。

それではまた。

『風姿花伝』第一章「年来稽古」の条々、アラフォーの心得と「初心」について

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ものすごく遅れている論文が終わっておらず、それが何よりも気にかかって、自分自身の単著(複数)の執筆も滞る。そんな中ブログの執筆などしていたらどこ方面にも義理が立たないこととておりからの蒸し暑さも言訳に更新が途絶えていた。

しかし執筆の過程での発見やら、イラク、イラン、シリア、イスラエル・ガザやら、あと忘れられているようだが同様に重要な動きがあるリビアやイエメンなど、中東の現地の激しい変転と、それにまつわる情報や論説の奔出する勢いは止め処なく、受け入れるだけでは消化不良でよくない。

しかしそれらを包括的に集めて整理して分析などしようものなら今取り掛かっている論文やら本やらの完成は遥か先に遠ざかってしまいそうだから、やはり日々の中東情勢からは少し距離を置いておこう。

その代わりと言っては何だが、このブログを立ち上げたきっかけ、ブログのタイトルにもなっている『風姿花伝』について書いてみよう。今日はほんの一瞬だけ、世阿弥の芸論の世界に逃避してみたい。

世阿弥の『風姿花伝』は、ごく短い序章に続く第一章「年来稽古条々」で、芸事に携わる人間への訓戒ともいうべき、各人の年代ごとに肝に銘じるべき項目が手短かに列挙されている。

「七歳」から始まっていて、「この芸において、大方七歳をもて初めとす」とある。

七歳というのは数え年だとすると現在の六歳か下手をすると五歳ぐらいであってもおかしくなく、その頃に芸事の手ほどきを始めるというのは今に至るまで変わりないだろう。

このころは良いですね。

「このころの能の稽古、かならずその者しぜんといたすことに得たる風体あるべし」という。七歳の芸事の手ほどきの段階は、なるべく子供がやりたいようにやらせておくがよいという。あるがままに(レリゴーですか)自然にやっているだけでそれなりに風情がある。「ふとしいださんかかりを、うちまかせて心のままにせさすべし」であるそうな。

「さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず」。

なぜならば、「あまりにいたく諫むれば、童は気を失いて、能ものぐさくなりたちぬれば、やがて能はとまるなり」。あんまりきつく叱ってやらせていると、子供はやる気を失ってしまい上達しなくなる。

たぶんそうでしょうね。そもそも向いている子は、という条件付きでしょうが。

「十二三より」「十七八より」と、取り立てて芸事を仕込まれたわけでもない私にとってもどことなく思い当たることがあるような条が続くが、それはまたいつか今度触れることにして、「二十四五」でいったん開花する「花」についてもまた後で考えることにして、個人的にズドーンと衝撃を受けた「三十四五」の条に飛ぼう。

世阿弥の時代は「五十有余」で老齢の域に達していたというから、今に当て嵌めるなら、幼児期はともかく、若年・壮年期については5歳から10歳ぐらい足してみるといいのだろう。そうなると「三十四五」が私の該当する段階だ。

世阿弥曰く、「このころの能、盛りの極めなり。ここにて、この条々を究めさとりて、堪能になれば、さだめて天下に許され、 名望を得べし」

この年代が芸の盛りの最高潮だというのですね。ここで芸を極めれば、世に認められ、名声を得ることも可能だという。

しかし、、、

「もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、いまだ真の花を究めぬしてと知るべし」

だそうです。

なぜならば、「もし究めずば、四十より能は下るべし」。

薄々感じてはいるんだがそうなんだなー。

子供のころ、叔父さんの物理学者が「数学者は40過ぎたら使い物にならない」と語っていた。当時は意味がよく分からずぼんやり聞いているだけだったが、そうか、そうだった。あの時叔父さんは何歳だったんだろう?ものすごい年上に感じたが、実際は助手から助教授になったぐらいだったんだろうか?

世阿弥は「三十四五」の条では妙に畳み掛ける。繰り返しが多い。

「さるほどに、上るは三十四五までのころ、下るは四十以来なり」。

もうさっき聞いたよもういいよわかったよ~

でもやめてくれない。

「かへすがへす、このころ天下の許されを得ずば、能を究めたるとは思ふべからず」。

この時期に世に認められていなければ、もうそれ以降に芸を極められるとは思うなよ。だそうです。

だから、
「ここにてなほつつしむべし。このころは、過ぎし方をもおぼえ、また、行く先のてだてをもおぼゆる時分なり」

もう一度心を引き締め直せ。この年頃になれば、芸のこなし方・身の処し方、先行きの方針などもわかってきているはずだ。そうはいかないんだなー。

そこでまたもう一度。
「このころ究めずば、こののち天下の許されを得んこと、かへすがへすかたかるべし。」

もうわかりましたよ許してー。

でもね、世阿弥がこれを書いていたのはだいたい1400年頃で、おそらく30代後半から40歳ぐらい。

彼自身が、この年頃で成果を出さねば、もう終わってしまうぞ。その先は下り坂だぞ。と自分自身に言い聞かせていたんじゃないかな。観念していながら、少し焦りもあったかもしれない。

あるいは、いい年しながら一向に芸が上達しない、芸に精進しない先輩たちを見て苛立っていたのかもしれない、ああなってはいけない、なんて思っていたのかもしれない。

あれ、『風姿花伝』の第一章はこれに続いて「四十四五」「五十有余」までありますけど、それは世阿弥はどうして書けたの?知ったかぶり?

たぶんこれは、お父さんの観阿弥の姿を見て書いたのではないか。そもそもこういった年代ごとの稽古の指針そのものが、観阿弥から日頃教えられていたことを咀嚼して書いたものなんじゃないかな。

大学受験の頃に世阿弥の『風姿花伝』を読んだとき、あたかも芸を極めきった名人、年齢的にも白髭の長老のような人が書いたのだと思い込んでいたのだけれども、今読み直してみると、教えられたもの、受け継いだものをようやく受け止められるようになりながら、すでに下り坂が忍び寄ってきていることに怯え、早く自らの芸の形を示さなければならないと焦燥感に駆られる、そんな大変な時期に書かれていたものだと分かる。決して悟りの境地に達してから書いたものではないだろう。

そうしてみると、「二十四五」を振り返って語る条が切ない。

「このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり」
この頃に芸が定まり始める。稽古にも熱が入る。

「声もすでになほり、体もさだまる時分」であるから、「この道に二つの果報あり」。それは「声と身形」すなわち張りのある声と身体。

この時期は盛りの時期で、人目にも立つだろう。「よそめにも、すは上手いで来たりとて、人も目に立つるなり」

そうなると「もと名人などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初む るなり」
名人に勝負して勢いで勝ってしまうこともあるかもしれない。そうしたら世の人々は褒め称えるだろうし、本人も自分は芸達者だと思うようになるだろう。

「これ、かへすがへす主のため仇なり」
しかしこれが本人のためにならない。

なぜならば、これは「真の花にはあらず」

それは「時分の花」なのである。

「時分の花」とは、「年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍しき花なり」

「たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし」

「時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり」

世阿弥の、自分自身の経験に照らした、悔恨を込めた後世への戒めでしょうか。

しかし若い時の「時分の花」が儚く底の浅いものだから駄目なのかというとそうでもない。ここで世阿弥は「時分の花」を「初心」とも言いかえている。

あれ、世阿弥は「初心忘るべからず」とも言っているのではなかっただろうか。その場合の初心とここでの初心の関係はどうなのだろうか?

「初心忘るべからず」は世阿弥が老境に達してから著した『花鏡』の中に出てくる。ここにおいて「初心」は『風姿花伝』の頃とは意味合いが異なってきていて、もっと複雑で多様なものになっている。

「初心」とはもちろん最初は若い時に発見して体得するものだけれども、『花鏡』では、どの年代にでもそれぞれに新しい「初心」を得ることができる、ということになっている。若くなければできない芸はそれはそれでかけがえがない。しかし円熟期にも、そして老境に入ってもなお、人は日々心新たに「初心」を発見することができるのだ。失われたものを嘆くことはない。今得ているものもやがては失ってしまうことも恐れることはない。その時々に「初心」はあり、精進次第でそれを発見できるのだ。

私には『花鏡』の境地を今から窺い知ることは到底できないが、少なくとも『風姿花伝』の時点では、世阿弥は失われた「時分の花」を振り返らず、真の達成を求め、やがて訪れる下り坂を予期して身を引き締めていたのだろうと想像する。そしてその後の世阿弥に、『風姿花伝』を著した時点では予想もつかなかった、「初心」を新たにする機会が幾度も訪れたことを、嬉しく思う。

ちょっとした構想– noteで読んでみたい?

とある学会の年次大会が終了。発表一本とコメント一つを頼まれていたのを何とか終了。いずれも良い勉強になりました。聞きに行ったセッションも大変有益でした。

ところで、明日病院で検査を受けたりで、イラク情勢についてもたくさん書きたいことがあるが書く余裕がない。やはり健康の不安はなくしておかないと良い仕事はできないので、これから発表していくいろいろなタイプの作品のためにも万全の準備ということでいろいろ見直している。

中東政治についても、イスラーム政治思想についても、いろいろ準備している本があるのだけれども、その多くは、完成させて書籍の形で本屋に並ぶまでは具体的にどういうものとは言えない。とはいえ、「アラブ諸国を対象にした政治学的な本」については、それは東大出版会の『UP』で連載していたような方向のものになることは、読んでくれていた人には予想がつくだろう。「イスラーム政治思想」についての本は、このブログでなんどかリストにしてあるような、昨年度に色々な学会誌に発表したグローバル・ジハードを巡るものが中心になりそうだ、ということは自明でしょう。突然研究業績が降って沸くわけではないですから。

イラクとシリアでのISISの伸張というのはまさに、このグローバル・ジハードの思想を実践する人たちが出てきて、実践する環境条件が局地的に存在してきているということなので、研究者としては、自分の研究テーマの存在意義をことさらに主張しないでもいい状況が生じているという点では好都合だが、そのせいで国土が戦乱に陥って人がいっぱい死んだりするのは私の望むところではない。

それに加えて、ずっと取り組んでいるのが、「アラブの春」とその後の展開を、政治学ではなく、人文的な歴史叙述として、どっちかというと物語的に、記しておこうという企画。この企画は、そもそもずっと前に、「2001年の9・11事件から10年である2011年」をめどに、中東に関する大きな歴史書をシリーズで出したい、というご依頼がありました。これは非常に重く、かつやりがいがあるものなので、お引き受けして、それを一つの目標に幅広く資料を集めてきました。

しかしそうしたら、2011年にまさに大変動が起こってしまいました。しかし逆に言えば、2011年を画期として、その後、あるいはそれに至るアラブ近代史を書くことにいっそう意味が出てきたわけです。

歴史書企画の刊行の時期を延期して、2011年そのものの行く末を描くべく、現状分析の積み重ねを、将来の歴史書の執筆の準備作業とも考えて、継続してやってきました。現状分析をする際には単に事実を羅列するわけではなく、視点を明晰にする枠組み・概念が必要なので、そこは政治学やメディア論や(思想史はもちろんのことですが)、これまでかじったさまざまの枠組みを勉強し直して使ってきました。そういった方法論の枠組みから現状を整理する作業は、それだけで著書にしようとしているのですが、最終的には、アラブの春とは何だったのかを総合的に歴史叙述で示してみたいと思っています。

その本を書いているのですが、構想は大きく、紙幅も限りなく、そして現地で状況がどんどん先に進んでいくのでそれも追いかけておかねばならず、完成が伸びています。

しかし、現地の動きが終わらないと本が書き終われない、というのでは、古くなってしまってから本が出て、誰も関心を持たない、ということになりかねません。

「アラブの春」の最初の頃は、すでに記憶の遠くの彼方に、歴史となり始めているようにも思います。そうであれば、今進んでいる事象はそれとして追いかけておきながら、「初めの方」についての歴史叙述はもう発表してしまってもいいのではないか?と思うようになってきました。

そこでですが、もしかすると、「最初の方」つまり、「アラブの春」が、本当に衝撃的で、結構幸福だったころの最初の方から、変転の兆しが見える頃ぐらいまでの、かいつまんだ部分を、ウェブ上でいくつかに分割して発表してみたりするかもしれません。これは出版元・編集者とも相談しないといけませんが。

幸せなことに、この本については、編集者に逐次執筆をサポートしていただいてきたにもかかわらず、「話題になっているうちに急いで出せ」ということを一切言われません。むしろそうではなく、本当に必要な時間をかけて、後に残るものを出しましょう、と幾度も励まされています。

本来必要なだけの準備を必死にしている間に、急造の本が出てしまって、大方の読者はそれで満足してしまう、ということはよくあることであり、それを焦る気持ちがないわけではありませんが、その程度の本で満足する読者は、結局はそれ以上は求めないのだと思っています。

しかし、確かに、そろそろ読みたい、という読者はいるようなので、β版のような、プレビュー版のようなものを、ウェブ上に載せてみようかな、と考え始めています。

このブログでというよりは、少額の逐次の課金が可能な、noteの利用を考えています

フェイスブックのような友人や仕事上の同僚とのやり取りとは別の、「書き手と読者」という関係でコミットしてもらうために、また全部公開してしまうと版元に悪い、といった理由も多少はあり、一まとまりを読むごとに100円ぐらいポチッと払ってもらうことになるかもしれません。

小さくまとめて出していく形になるので、最終的に出る活字の本とは同じではないですが、本で書いている対象の雰囲気、がウェブを使うことでより鮮明になるのではないかとも思います。「アラブの春」は何よりもウェブ上で世界に発信されたのですから。

また、それとは別に、中東の映画についてのエッセーとか、日本の文芸誌や映画雑誌が商業的理由で取り扱っていないテーマについても書いてみたいですね。このブログで書いてもいいですが、それでは私がダンピングしてしまうことになり市場が成立しない要因にもなっているかもしれないので、まあ一応本当に読みたい人だけが読めるようにnoteで最低限の課金で書いてみてもいいかなと思います。

そんなわけで、そのうち人知れずポロっとnote上にアラブの歴史物語や、中東の映像文化論などが載っているかもしれません。

ブログ・タイトルの由来

このブログの開設を知った人から、「風姿花伝」と銘打っているということは、中東・イスラーム学の名人が極意を教えてくれるということかね?と聞かれました。

決してそういうことではありません。

むしろ自分自身に対する呼びかけです。

なぜこのブログを立ち上げる気になったかというと、1973年9月生まれの私はもう40歳になってしまった、ということを正面から見つめようという気になったからです。

何で40歳になったから「風姿花伝」なのかというと、、、

ちょっと話が遠回りします。

私の場合、世の中に向けて文章を書き始めるようになったのは、通常より早く、20代の後半からでした。私が公に文章を書く機会を得た日は明確に特定できます。2001年の9月11日でした。

日本のイスラーム学会の業界では絶対に許されない説を最初の論文で書いてしまい、とある有力教授から学会の満座の席で恫喝され、その瞬間から、同分野の大学院生が文字通り目の前にいても一言も口をきいてくれなくなった、というのがこの年の早い時期にありました。

この年の4月からアジア経済研究所に就職していたため、終身雇用は保障されていました。

ただし、学会の枠で仕事をするつもりでいれば、一生文章を書く機会を得られないことは確実視されていました。

学会の有力者におもねって心にないことを論文に書けば、やがてそれが自分自身の学説の発展を縛ることになりますから、書けません。信じるところを信じるとおりに書いたことの結果は甘受するつもりでした。

しかしそれは若者の無謀な侠気というもので、実際に、世の中に向けて書く機会が一生ないかもしれない、ということの意味は、日に日に重くのしかかってきました。海浜幕張の職場の、陽だまりの中で、何度か呼吸困難になって倒れました。

元来が、やがては世の中でものを書いて生きていく、という目標・目的があり、その素材として中東・イスラーム学を選んだという事情がありますから、一生その機会を得られそうもない、という見通しは、途方もなく厳しいものだったのでしょう。

学会の枠の外で、なおかつ中東・イスラーム学について書く機会を得られた直接のきっかけは、2001年の9・11事件。

その瞬間、私は27歳で、翌日からアジア経済研究所の机に座っていると、次々に新聞社・通信社から電話がかかってきました。「イスラームを専門にしている人ならだれでもいい、説明してくれ」という様子でした。

基本的には、私の今現在の生活は、その時から連続しています。原稿の依頼は、時と共に性質を変えながら、途切れることなく続いています。飛んできたさまざまな球をひたすら打つ、という生活が続いてきました。

それまで日本の現代イスラーム研究は、「イスラーム復興」「イスラームが解決する」「イスラーム的システム」といった、日本の現代思想・文学界の期待に応えた「夢」を語ることに長けていました。中東研究やイスラーム学への入り口が限られているため、これに反する議論を行うことは、即排除されることを意味しました。また、特定の、野心的な教授が、予算やポストを獲得して、忠実な弟子にのみ配分する、ということが行われてきました(今も行なわれています)。

現実に即した中東・イスラーム分析が求められるようになったのは、現実に起きた事件の前に、一見難解な説を振りかざして、独善的に世の中に対して説教する教授、それにひたすら追随する弟子たちに、世間一般、特に出版・メディア界の一部から疑いの目が向けられたからだと思います。そこから、偶然のことながらこの年の4月からアジア経済研究所に就職していた私に、文章を書く機会の隙間がわずかに開けました。そこから入る以外に、もう道はありませんでした。

振り返ると、最初に発表した一般向けの文章は、「イスラーム原理主義の思想と行動」というもので、時事通信社から2001年9月13日に配信されています(池内恵『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、に再録)。

9月11日夜(日本時間)に事件が起きて、翌朝職場に行って電話を受け、さらにその翌日には配信されているのですから、よっぽど短時間に書いたというのが分かります。

当時、「原理主義」という言葉を使うだけで、研究者として失格、と烙印を押されたものでした。ですから、この言葉を意図して使って現象を説明する第一歩を踏み出したことは、学会に対する挑戦状と言っていいものでした。

もちろん、通信社配信の、無名の若手研究員の論説など、地方紙に掲載されても、ほとんど人目に留まることはなかったでしょう。しかしその時から、次々と舞い込んでくる依頼に応えて、同じことを繰り返し書くのではなく、こちらの中にある書きたいある対象を一部分ずつ、一側面ずつ描いて発表してゆけば、やがてどこかで一冊の本になる、という将来像が浮かびました(こうやって書いたものをテーマごとに時系列に並べたのが2004年刊行の『アラブ政治の今を読む』です)。

確かに、書くことは得意でした。時事通信に書いた原稿は、「数時間後」という締め切りにもかかわらず、パソコンに向かって書いてみたらあっという間に書けて、むしろ時間が余ってしまったことを覚えています。

これは生得、というか育ちのせいで、いばれるものではありません。活字以外にまったく情報を与えられない生活をしてきたので(『書物の運命』のあちこちにちらほらとそのあたりの事情が書いてあります)、一つの文章を発想すると、一瞬で目の前に文頭から文末までが映像のように、ただしすべてが活字で現れる、という具合になっていました。この頃は、浮かんでくる文章の写真を「なぞる」だけで文章が書けるような感覚がありました。

また、原稿用紙に万年筆で原稿を書いてファックスで送り、それがゲラになって送り返されてきてまたそれに手を入れてファックスで送り、それがやがて新聞や雑誌や本という形で送られてくる、という父の生活を家で毎日見ていましたから、出版の工程や、世の中に発するタイミング、書いてから出るまでのタイムラグも、書き手の立場から、かなり正確にわかっていました。

なお、私自身は大学入学と同時にワープロ、そしてすぐにウィンドウズのパソコンを使い始めたので、手書きで原稿を書いたことはありません。

もし手書きで書かなければならないのだったら・・・もしかすると文章を書く仕事をしていないかもしれませんね。大学受験の準備であまりに多くの筆記をし、腱鞘炎気味になり、手で書くという作業自体はできれば避けたかったですから。

私が20代の半ばまでに身に着けていた「書く」という行為は、純粋にキーワードや文体や構成や出だしや結語を発想することだけで、具体的な中身が必ずしも伴っているわけではありませんでした。いくら文章の構想や構成がうまくても、オリジナルな研究の蓄積がなければ研究者は隅々まで文章を書ききれません。

普通は研究者は研究を積み重ね、論文を苦労して書きながら、文章の構成法や表現を覚えていくのですが、私の場合は、特殊な育ち方があったため、研究を積み重ねる前に文章だけは異様に書けるようになっていました。

また、中身と文章は不即不離なので、文章の論理や構成を見て「おかしい」文章は、研究内容からもおかしい、ということが、直感的に分かるようになっていました。ある学説について、事実を積み上げて「おかしい」と証明することはできないが、論理的に、この方向性で行くと、やがて何らかの意味で行き詰る、ということは分かるようになったということです。

たとえそれが世間的に評価されており、学会でもてはやされている学説であっても、論理構成としておかしければ、どうしてもおかしいと感じられ、それに則って文章を書くことが生理的にできない、という状態でした。

言っておきますが、今はそんなことは感じません。文章がおかしいように見えても偉大な発見や発想を含んでいる論文や著書はいくらでもあります。

また、文章だけを見て極端に先の先まで勘を働かせるというか、強く感じて思い込むということが、もう知的にも、体力的にもできなくなっています。

そして、自分の書く文章もまた、最初から最後まで見通せるかのような感覚は薄れ、いつまでたっても終着点が見えない課題に取り組み続け、書き続けることに耐えられるようになりました。つまり、かなり鈍感になったということです。

まだ部分的に子供と言っていいぐらいの若い時に、一時的にある能力が、突出して鋭敏に発達するということは、よくあることなのではないでしょうか。

文章に対する異様な感覚という点だけで言えば、中学2年生の時がおそらくもっとも敏感だったでしょう。瞬時に与えられた言葉を用いて回文を作ったり、何の変哲もない事務的な用語を韻を踏んだり意味をずらしたりしてとてつもなく面白い文章にするといったことができました(そんな能力はすぐに消えました。ずっと続いていたら病んでいたでしょう)。

子供の敏感な感性のしっぽを残しながら、ある程度は大人の研究も積み重ねていた20代半ばには、「文章は書きたいが素材がない。素材をくれたら、調べてきた人の何倍も上手に書ける」という状態だったのです。

そのような状態で2001年の9月11日を迎えます。

(続く)

ブログ開設しました

ふと思い立ってブログを開設してみました。

20代後半の頃から、偶然の事件をきっかけに、中東政治やイスラーム思想について、あらゆる新聞や雑誌に寄稿させてもらいました。いろいろな媒体に依頼されるまま書いてきたので、書いたものが散らばってしまい、よほどの専門家・業界人でないと全部は読んでくれていないのではないかと思います。

このブログでは、これまでに書いてきたものについて少しずつまとめ直しながら、中東やイスラーム世界について今起こっていること、知っておくべきことを、なるべく分かりやすくお伝えしようと思います。

高校生や大学生ぐらいでも、ちょっとでも中東やイスラーム思想に興味を持った人に読んでもらえるように、とにかくわかりやすく、をめざします。

といっても、文章を書き始めたころ、50歳代ぐらいの編集者から、両手で握手されて「君の文体年齢は60歳だね!」と褒められた(←これ、私とその人の間では褒め言葉)、実年齢とずれた文体や感覚を持った書き手ですので、なおも分かりにくい時はご容赦ください。