【テレビ出演】7月9日(木)にBS Japanの日経プラス10に出演し解説します

明日7月9日木曜日の夜10時から、BS Japanの「日経プラス10」に出演します。

テーマは、とりあえず、こんな感じのものである。日経プラス10

7/9(木)「“国家樹立宣言”から1年…『イスラム国』の最新動向とグローバルジハードの脅威」【ゲスト】池内 恵(東京大学先端科学技術研究センター准教授)

【寄稿】『フォーサイト』の連載を再開 ギリシア論から

昨日予告した、『フォーサイト』への寄稿がアップされました。

池内恵「ギリシア――ヨーロッパの内なる中東」《中東―危機の震源を読む(88)》『フォーサイト』 2015年7月8日

今回は、無料です。久しぶりの寄稿ということもあり、また分析ではなく自由な印象論、政治文化批評でもあるので、まあ気軽に読んでもらおうかと。ご笑覧ください。

中東問題としてのギリシア危機

今話題のギリシア債務危機。「借金払わないなら出て行け」と言うドイツの世論とそれに支えられたメルケル政権、言を左右し前言を覆し、挙げ句の果てに突如、交渉提案を拒否するよう訴えて国民投票に打って出たギリシアのチプラス政権、それに応えて圧倒的多数で交渉提案を否決してしまう国民。確かに面白い対比です。ユーロ離脱の決定的瞬間を見たい、といった野次馬根性もあって、国際メディアも、中東の厄介なニュースを暫し離れてギリシアに注目しています。

ギリシア問題は、一面で「中東問題」であるとも言えます。もちろん狭い意味での現在の中東問題ではありませんが、根幹では、オスマン帝国崩壊後に近代国際秩序に十分に統合されていない地中海東岸地域に共通した問題として、中東問題と地続きであると言えます。

私はギリシアは専門外なので、深いところはわからないのだが、目に見える表層を、特に建築を通じて、素人ながら調べてみたことがある。

そこでわかったことは、現在のアテネなどにある「ギリシア風」の建物は大部分、19世紀に「西欧人」特にドイツ人やオーストリア人の建築家がやってきて建てたということだった。途中からギリシア人の建築家が育ってきて、ドイツ人やオーストリア人建築家の弟子として引き継ぎはしたものの。

1832年のギリシア王国建国で王家の地位に就いたのはギリシア人ではない。なぜかドイツ南部のバイエルン王国から王子がやってきて就任した。なぜそうなったのかは西欧政治史の人に聞いてください。

それで王様にドイツやオーストリアの建築家がついてきて、ギリシアのあちこちに西欧人が考える「ギリシア風」の建物を建てたのである。

例えば、「ギリシア問題どうなる」についてのBBCなど国際メディアの特派員の現地レポートの背景に(私は6月末の本来の債務返済期限のカウントダウンの際には日本に居なかったので日本のニュース番組でどう報じていたかはわからないが、多分同じだったと思う)必ずと言っていいほど映り込むギリシア議会。

これです。

ギリシア議会

いかにも「ギリシア的」ですね。

でもこれ、ドイツ人の建築家が19世紀前半に建てたんです。ドイツから来た王様の最初の正式な王宮でした。

近代西欧に流行した建築様式としての、古代ギリシア(+ローマ)に範をとった「新古典様式」の建築です。西欧人の頭の中にあった「古代ギリシア」を近代ギリシアに作っていったんですね。

ギリシアの「ギリシア風」建築の多くがドイツ人など近代の「西欧人」が設計したものであるという点については、マーク・マゾワーのベストセラー歴史書『サロニカ』を『外交』で書評した時に、本の内容はそっちのけに詳細に書いてしまった。

『外交』の過去の号は無料で公開されています。このホームページの第12号のPDFのところの下の方、「ブックレビュー・洋書」というところをクリックすると記事がダウンロードされます。『外交』に2年間、12回にわたって連載した洋書書評の最終回でした。

池内恵「ギリシア 切り取られた過去」『外交』Vol. 12, 2012年3月, 156-159頁.

現在の世界の歴史家の中で、学者としての定評の高さだけでなく、一般読者の数においてもトップレベルと思われるマゾワー。その「ギリシアもの」の代表作で、英語圏の読者には最もよく知られて読まれている『サロニカ(Mark Mazower, Salonica, City of Ghosts: Christians, Muslims and Jews 1430-1950)』は、第一次世界大戦によるオスマン帝国の最終的な崩壊の際の、現在ギリシア領のテッサロニキ=当時のサロニカが被った悲劇を描いている。サロニカ=テッサロニキは、アナトリア半島のギリシア人(ギリシア正教徒)と、現在のギリシア側のトルコ人(イスラーム教徒)の「住民交換」とその過程で生じた多大な流血の主要な場であった。

マゾワーの本はやっと翻訳され始めている。まずこれ。Governing the World: The History of an Idea, 2012の翻訳が『国際協調の先駆者たち:理想と現実の二〇〇年』として、NTT出版から刊行されたところです。

続いてNo Enchanted Palace: The End of Empire and the Ideological Origins of the United Nations, 2009『国連と帝国:世界秩序をめぐる攻防の20世紀』として慶應義塾大学出版会から刊行される予定だ。

さらに、Dark Continent: Europe’s Twentieth Century, 1998の翻訳が未来社から出る予定であるようだ

これらはいずれも、国連や国際協調主義の形成といった、国際関係史の分野のものだが、ぜひ著者の狭い意味での専門である、ギリシア史・バルカン史の著作にも関心が高まるといいものだ。

「中東」としてのギリシアについて、それがオスマン帝国の崩壊によって生まれたものという意味で中東問題と根が繋がる、といった点についての論考は、近く『フォーサイト』(新潮社)に掲載される予定です。

そんなにオリジナルな見解ではなくて、今日出席した鼎談でも、元外交官の中東論者が同じようなことを仰っていた。中東を見ている人がギリシアに行くと共通して思うんでしょうね。

『フォーサイト』に長く連載してきた「中東 危機の震源を読む」(『中東 危機の震源を読む (新潮選書)』として本になっています)と「中東の部屋」ですが、「イスラーム国」問題が人質問題として日本の問題になってしまったあたりから、個人としての日本社会向けの発言という意味もあって、その他いろいろ思うところがあって、個人ブログやフェイスブックを介した、読者への直接発信に労力を傾注してきた。

直接的な情報発信は今後も続けていこうと思うのだが、しかし、個人ブログで何もかも書いてしまうと、媒介となるメディアが育たない。私の議論を読む人は、私の議論だけでなく、ある程度は質と方法論を共有した他の専門家の議論にも触れて欲しい。

今後はもう少し、これまで縁のあった媒体を中心に、間接的な発信を再び強めていこうと思う。

そうはいっても、私の本来の任務である論文・著書の刊行義務がいよいよ重くのしかかってきているので、あまり頻繁にというわけにはいかないが。

そこで、ギリシアの中東としての意味や、建築史の搦め手から見たギリシア近代史といった、緩やかな話題からリハビリ的に『フォーサイト』への寄稿を再開してみようと思っている。

【今のうちに告知】8月8日に北大でシンポジウムに

今のうちにご通知。8月8日に北大でシンポジウムに登壇します。14時から17時にかけて行われる予定です。

「北海道大学公共政策大学院(HOPS)創立10周年記念シンポジウム」というもので、北海道新聞の共催ということもあって、かなり大掛かりな、また参加無料で、一般に開かれたものになります。

北大HOPS

タイトルは正式には決まっていないようですが、現代社会における宗教、といったテーマになりそうです。近く広報されると思います(私が遠隔地への出張で連絡を怠っていたために遅らせているような気がいたします)。

私以外に、北大法学部の辻康夫先生(西欧政治思想史)が予定されています。辻先生は多文化主義やマイノリティの問題に関心を寄せていらっしゃいます。

チャールズ・テイラー編著のこの古典的名作の訳者の一人でもありますね。

この本は、イスラーム教と近代社会との関係について突き詰めなければならなくなる時には結局ここに戻ってこないといけなくなる、と考えて私が当初から論文で引用してきたものです。その後色々な議論が出たように見えますが、新しいことを言おうとして認識はかえって混乱した面もあり、この本の重要性は今も変わっていないどころか、いっそう価値を高めています。

この本も絶版なのか・・・信じられんな。

「岩波モダンクラシックス」のレーベルで出しなおしていたようだが、これも版元品切れ

あのー、「クラシックス」といったレーベルをあえて作るのであれば、いくつかの厳選した本だけは恒久的に本屋で常に手に取れるようにしたい、在庫を常に持っておいて、必要とするひとがいればいつでも出荷できるようにしたい、というふうな志があるのかと思ったら、大部分が品切れじゃないですか。がっかりだな。

夏になるたびに私が一人で帰省していた母方の祖父の家では、『広辞苑』の各版を、「大変な苦労をして作ったものだから、時代の変化が後々になってから分かるから」と予約注文して買い支えて、大事に並べていました。他社の『大辞林』が出た時も、当然の義務のように買い支えていました。ところが出版社の経営上の一時しのぎのために、さほど改定もしていないのに「新版」を乱発して中身が薄くなっていき信頼を失っていった。そのことを「祖父のような人たちに対する背信だ」と怒っていた父を思い出します。幼い頃のそんなやりとりは、不意に蘇ってきます。

「クラシックス」も、一時的な商売のために使われるのであれば、結果的に市場での価値を失わせる、書物に対する背信と言えるのではないでしょうか。

最近は文庫が「本の墓場」である、などという実態を明かす編集者もいます。「文庫に入ればずっと本屋に置かれる」というのは過去の話で、いまや「文庫も新書も多すぎて本屋の棚に置いてもらえず、文庫になったらもう流通せず、出版した月だけ出版社の『資産』を帳簿上増やすのに使われて、やがて廃棄処分されて本としての生命を終える」ということです。

少子化・高齢化・デフレ・組織の高コスト体質で出版業界がヘタって粗製乱造本をばら撒きながら(不動産収入で社員に給料を出しながら)基本書を絶版にしてコストを浮かし、それによって学芸の基礎が深刻にダメージを受けていくのを感じます。最近特にそのことを感じます。

とりあえずこの本も中古で買っちゃいましょましょう。あと、もう今後は原書で読んじゃいましょう。Kindle版もある。

シンポジウムではイスラーム教とかキリスト教といった厳密な「宗教」に限らず、主権国家や民主政体や資本主義といった世界を成り立たせている制度への不信や不満や被害者意識が、ギリシアのEU緊縮案否決に見られる、集団の非合理的な感情の激発を誘い、先行きの見通せない状況を生じさせていることについて、考えてみたいと思います。

西欧政治史・思想史が分厚い北大ですから、このあたりについて歴史を踏まえた洞察が得られるものと、期待しています。

その意味で、企画を担い登壇もされる予定の吉田徹さんの『感情の政治学 (講談社選書メチエ)』は参考文献となるのではないでしょうか。

お近くの方はぜひ。

お近くでない方も、酷暑の時期に、涼しい札幌にぜひお越しになっては。北海道に来ちゃってシンポジウムは忘れてくつろがれてもそれはそれで。

詳細はまた通知します。

シンポジウムで登壇(築地本願寺・7月25日)

帰国して、毎度のことですが、はげしい時差の元で仕事しています。

7月25日に、東京の築地本願寺本堂で行われるシンポジウムに登壇します。入場無料・申込不要です。

シンポジウム「宗教と平和―中東とチベットの現実から問う平和への道―」2015年7月25日土曜日午後1時半〜4時
築地本願寺<東京都中央区築地3-15-1>
※入場無料、申込み不要

築地本願寺シンポ7月25日

チラシはここから

私以外のパネリストは、伊勢崎賢治さんと定光大燈さんです。

帰国しました:中東諸国のリスク

10日間ほど、アラブ首長国連邦で資料収集に没頭していましたので、ブログの更新が減っていました。

ちょうど帰国したところです。

現地調査は、次の次の次ぐらいに取り組んで成果を出す課題について、今のうちに見て、考えて、調べるために行うものですから、すぐにどうだったこうだったとブログに書くことはありません。ただいま資料を整理し、消化中です。

合間に手早く撮った写真などは、以前チュニジアについて試してみましたが、ブログの素材として用いるかもしれません。それはまた時間が出来た時に。あくまでも副産物ですので、調査の本体は論文や本になります。

短い現地滞在中に、国際的に大きなニュースとなった事件が相次ぎました。日本ではそれほど報じられていないかもしれませんが、中東、西欧、米国のメディアでは今でも事件後の状況を注目して見ています(並行してギリシアのデフォールト問題のカウントダウンで盛り上がっていますが)。

6月26日(金) クウェートのシーア派モスクへの自爆テロ、チュニジア・スースのビーチ・ホテル襲撃、フランス・リヨン近郊の化学工場への襲撃

6月29日(月) エジプト・カイロ郊外ヘリオポリスで検事総長が爆殺される

7月1日(水) エジプト・カイロ郊外10月6日市でムスリム同胞団の幹部ら13名を治安部隊が殺害
        エジプト・シナイ半島北部シャイフ・ズワイドで「イスラーム国」の「シナイ州」を名乗る勢力がエジプト軍の拠点複数を一斉に攻撃、エジプト軍と交戦

ただし、これらに並行して、イエメン内戦とリビア内戦が激しく続いており、私がいたアラブ首長国連邦を含むアラブ湾岸産油国(GCC)はこの二つの内戦に深く関与しているため、それらは上記のテロと同様に注目されていました。

「イスラーム国」のプロパガンダに影響されたとみられる、クウェートのシーア派モスクへの攻撃は、宗派紛争を惹起しGCC諸国の社会・政治を内側から揺るがす可能性があるため、連動・連鎖反応ががあると危機的です。

イラク南部からクウェート、バーレーン、サウジアラビア東部にかけてのシーア派が多く住み、巨大な油田を抱える地帯に混乱を及ぼすことを全力で防ぐのが、ペルシア湾岸のアラブ産油国(GCC)の共通の安全保障上の課題として、大きく見えてきています。

今回の渡航先を選ぶ際には、クウェートとチュニジアを真剣に検討した上で、リスク懸念からやめておきました。2月に行ったチュニジアにもう一度行って、リビアの内戦からの波及の程度を見てみたいと思っていましたが、「イスラーム国」がチュニジアの安定を揺さぶる宣伝を行い、チュニジア国内に呼応する勢力が曖昧ながら存在する以上、滞在中の安全確保が万全にできないと判断して見送りました。クウェートとバーレーンの宗派間関係も見ておきたかったのですが、5月にサウジ東部で相次いだシーア派モスクへのテロ以後は、標的がクウェートにも拡大する可能性があったため、これも回避しました。

もちろんイラクやシリアは論外です。

エジプトについては、広い国ですから、滞在中にどこかでテロや辺境での衝突があっても直接に被害を受ける可能性は低いですが、以前よりも爆破の起きる場所が多様化しているため、安全の確保に確証が持てません。特に・軍・警察関連の施設とその周辺は危険を伴います。6月30日から7月3日にかけての、2013年のクーデタ関連の象徴的な日付には局地的・突発的な騒乱状態が予想されたため、安全上の制約から自由に動き回ることができないのであれば成果も得られにくいとみてエジプトもまた渡航を回避しました。

しかしこうしてみると、アラブ諸国で行けるところがどんどんなくなってしまいますね。

現状ではアラブ首長国連邦とオマーンとモロッコが、残された数少ない安心できる場所といえるでしょうか。ヨルダンは目立ったテロ事件は最近起きていませんが、台風の目の中に入ると風が止む、といった状態です。

外国人労働者の方が居住者の多数を占めるこの国は、国家というよりは多国籍企業やグローバル・シティとして捉えた方が良いこともあります。しかし近年に、シリアやイエメンやリビアに直接の軍事介入をするなど、従来とは違う、国際政治・安全保障上の存在感を増しています。それがどれだけ実体を伴ったものなのか、持続可能なのか、追っていろいろ考えてみましょう。

グローバル・ジハードの連動か:金曜日に3件のテロ(チュニジア、クウェート、フランス)

Braking News Al Jazeera Eng

本日、6月26日の金曜日、中東各地に加え西欧でも、グローバル・ジハードに感化されたか呼応したと見られるテロが並行して生じています。相互の関連は不明です。関連がなくても(むしろ関連のない人と組織が)、呼応してテロを連動させることがグルーバル・ジハードの基本メカニズムです。

(1)チュニジアの西海岸の主要都市スース近郊のビーチ・リゾートにあるホテル(Riu Imperial Marhaba hotel)を狙ったテロで少なくとも27人が死亡(GMT13:00前後)。なおも銃撃戦が続いているという報道もある。
http://www.aljazeera.com/news/2015/06/gunmen-attack-tourist-hotel-tunisia-150626114019519.html
http://www.bbc.com/news/world-africa-33287978
http://www.bbc.com/news/live/world-africa-33208573

(2)クウェートのクウェート市でシーア派のイマーム・ジャアファル・サーディク・モスク(Imam Ja’afar Sadiq Mosque)が爆破され、少なくとも8人が死亡。
http://www.aljazeera.com/news/2015/06/deadly-blast-hits-kuwait-mosque-friday-prayers-150626103633735.html
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-33287136

(3)フランスのリヨン近郊サン=カンタン=ファラヴィエール(Saint-Quentin-Fallavier)で米国系企業Air Productsの工場が襲撃され、少なくとも一人が殺害された。犯人は一人が銃撃戦で射殺され、一人が逮捕されたとする報道がある。「イスラーム国」の黒旗を掲げていた、車に爆発物を積んでいたとの報道もある。勤め先の上司を殺害し遺体の首を切断して襲撃現場に置き、メッセージを残したとされる。
http://www.theguardian.com/world/live/2015/jun/26/suspected-terror-attack-at-french-factory-live-updates
http://www.bbc.com/news/world-europe-33284937

クウェートの事件については、ラマダーン月の金曜日で集団礼拝に多くの人が集まるのを狙ったと見られる。サウジアラビア東部州で先月続いたシーア派モスクへのテロがクウェートに波及したことになる。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203169783844486
https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203171393244720
https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203171435885786

チュニジア・スースの事件については、ラマダーンと暑気払いを兼ねて金・土曜日の週末を現地人も外国人居住者も近郊リゾートなどで過ごすことが多いところを狙ったのだろう。

フランス・リヨン近郊の事件については、ローン・ウルフ型の小集団による自発的な犯行の可能性が高いが、詳細はまだ確定できない。

なお、池内はチュニジアにもクウェートにも、フランスにもいませんので、関係者はご安心ください。

チュニジアは今年2月の調査の裏を返し、3月のバルドー博物館襲撃事件以降の雰囲気を知りたかったが、明らかにチュニジアの安定を揺るがそうとする扇動が行われていて、呼応する集団がいることが感じられる状況では、身を守る手段を持っていない以上回避しました。

イラクとシリアの「イスラーム国」の活動が次に波及するのであれば、アラブ湾岸産油国のシーア派を抱えた国になるので、クウェートとバーレーンも調査の候補にしていたが、これも結局回避していました。直前まで検討して、最も危険が少ないところに渡航して、安全な距離をとって観察しています(前回のチュニジア渡航ではまだ安全だったチュニスからリビア情勢を見ていました)。

しばし現地調査で脳内リニューアル中。ニュースのリツイートでもどうぞ

中東某国に来ております。

いろいろと課題や締め切りを抱えながら移動中。

今取り組んでいるプロジェクトの調査をしながら、書いている原稿を進め、次の課題、その次の課題、そのまた次の課題の仕込みを並行して行っている、というような具合でしょうか。

やはり現地時間で現地の空気の中で生活していると、活性化します。現地時間に時計をリセットするたびに、中東研究者としてのOSがアップデートし更新されていくような気がいたします。

先週からイスラーム教の断食月のラマダーン月が始まっており、日中はほとんど物事が動かず、多くの店が終日締まっております。しかも酷暑ということで、観光には全く向かないシーズンですが、研究上はいろいろと発見したり考えることが多い有益な時間を過ごしています(滞在費が安く上がるのもいい)。

インターネットで世界中からどんな人が見ているかわからないので、中東に来ていても、ブログやフェイスブックではリアルタイムに書かないことが多くあり、全く書かないことも多いです。

ただ、移動しながらWiFiをつないでニュースを読む時間が増えますので、このブログの右側の窓に表示される@chutoislam でのリツイートが普段より増えるかもしれません。

あと、今見聞きしていることとは一見直接関係のない(深いところで研究上は繋がっている)、読んでいる本についてなども書いてみましょうか。

【寄稿】雑誌『Transit』のイスラーム世界特集号にインタビューで解説を

発売中です。


『TRANSIT(トランジット)特別編集号 美しきイスラームという場所2015』(講談社 Mook)

この雑誌は写真や紀行文が中心で、イエメンなど、写真家たちが過去10年以上かけて撮ってきた作品が収録されています。

内容についてはこちらからも

ただ、今回はイスラーム教やイスラーム史の概説や、近現代の中東やアフリカの政治史についても多くのインタビュー記事を載せて、入門書のような形になっています。

文化・アート系の雑誌では、対象の芸術方面に偏り、どうしても現実の社会や政治を見ず、宗教の精神性を求めても政治性を見ない傾向がありましたが、今回はかなり勉強していろいろ聞きに行っています。

(「イスラーム」という言葉で「イスラーム教」の宗教教義と「イスラーム諸国」の政治史と「イスラーム世界」の地理範囲と「イスラーム文明」の芸術文化表現とをいっしょくたに表現したり、「イスラーム過激派」と「イスラム国」で音引の有無を使い分けるなど、かえって混乱させる用語を使ってしまっていますが、これは編集部やライターが混乱しているというよりは、話を聞いた専門家の業界が混乱した議論をしてきたことのツケですので責められません。むしろ文章の中では「イスラーム世界」と「イスラーム(教)」をそれなりに分節化できているなど、混乱したこれまでの日本の「イスラーム」をめぐる言説体系に取り組んで、理解可能な表現を模索している様子があります)

私自身は次の二本の記事の中で、グローバル・ジハードの近年の展開について解説しています。

「アルカーイダがフランチャイズ化!グローバルジハードの展開と行方」106−109頁

「『アラブの春』が招いた大混乱とブラック企業化するイスラム国」110−113頁

昨日は磯崎新さんとのトークでしたが、そこでも話題に出た、湾岸産油国の現代建築などについても取り上げられています。

【出演情報】本日19時20分頃からTokyo FM(@小田嶋隆)に出演

本日、Tokyo FMの Time Lineという番組(19:00-19:52)の中の このコーナーに出ることになってしまった。6月18日(木)小田嶋隆●世に溢れる「反知性主義」という言葉の正体(19:20~19:37)

こういった話は全てお断りしているが、こないだこれについてうっかり書いてしまったことと、仕事帰りということでなんとなく引き受けてしまった。

井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった

駒場の東大の生協で発売されたばかりのこれを買ってきた。


『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門』(毎日新聞出版)

「タイトルがね〜」とくさしながら読み始めたが中身がすごく真摯でかつ単刀直入なので引き込まれてしまって、タイトルなど気にならなくなった。いや、本当に、リベラリズムのことは嫌いにならないでください、と心の底から思った。

(「人文系の先生のことは嫌いでも、人文系学部は社会に必要だから嫌いにならないでくださ〜い」とか応用が効くような気もしてきた)

この著者は、私が大学に入った頃、1・2年の教養学部の頃に『共生の作法』(創文社、1986年)を読んで以来、本が出るたびに買って読んできた。

思い出深いのはやはりこれでしょうか。この本のインパクトはすごかった。


『他者への自由―公共性の哲学としてのリベラリズム』(創文社、1999年)

その当時の東大の(ある程度勉強する)学生の間では、井上達夫先生というと、とにかく圧倒的な議論のキレとそしてあの迫力(あと地底から湧いて出るような声の響きにゾクゾクします)で、ほとんど「神」扱いされていた記憶がある。実力と実績と地位が伴った本当の「権威」(あるいは好きではないが「権威主義」の源泉になりそうな人)はどの辺りかというと、私の感覚では、客観的に見て、この先生になりそうなんだが、メディアなどの扱いは必ずしも常にそうではないようだ。学問の世界での評価・相場観と、世間の認識には、ズレがある。

日本・欧米を素材とする法哲学は私にとっては直接の専門分野ではなく、正直、法律には全く興味を持てなかったので専門研究上の接点はないが、イスラーム思想を研究する際に、法哲学概念の比較を行う際にはそれなりに念頭に置いて参照した。まあ両者が離れすぎているんで比較研究とか論文に書くにはふさわしくないんだが、参照軸として有効ですね。

それよりも何よりも、啓示の律法の絶対的な優位・支配が貫徹しているイスラーム思想を、相対化するために、対置させる確固とした思想の基盤を必要としていた。私にとっては、イスラーム思想の規範に対峙してぎりぎりの共生の地点を見いだしうるのはリベラリズムしかないとやがて思い定めることになり、井上達夫先生の文章は、直接の研究のためになるというよりは、イスラーム思想と向き合う際の支えとなった覚えがある。

さて、緻密・濃厚・時にデモーニッシュに論を進めるこの先生の文章は、一般的に言ってそれほど読みやすいとは言えない。

しかしこの本はタイトルでも十分すぎるほど明らかにしているように、一般向けに、誰にでも分かるように書いてある。

第一部では憲法改正とか従軍慰安婦問題とか安保法制とか、今現在議論が沸騰している問題に、リベラリズムの思想から応えてみせる。
第二部では主要著作の要点をかいつまんで話してくれているし、思想的・学問的な歩みを振り返っているところも、単なる読者であってこの先生の「学派」には接点のない私にとっては知らなかったことが多く、興味深い。

「井上達夫思想への入門」として非常によくできていると思う。

骨格・土台においては非常に手堅く洗練された思想・理論の入門であるこの本は、しかし今現在の政治的な議論(とその混乱)への非常に良い解毒剤になっている。おそらく編集者とともになんらかの予感があったからあえてこういう体裁で出したのかもしれない。

著者はリベラリズム思想を独自に展開する過程で、一方で欧米の自由主義者、ジョン・グレイとかジョン・ロールズを批判的に継承しながら議論をしていく。他方で、日本の「リベラル派」の抱えた問題を痛烈に批判していく。

現在の政治的な議論においては、日本のリベラル派批判の部分が注目されるかもしれない。実際タイトルがそのものずばりこれなわけだし。

帯には「偽善と欺瞞とエリート主義の「リベラル」は、どうぞ嫌いになってください!井上達夫」なんて宣言してある。固い重ーい先生がすごく弾けちゃっている感じに一抹の不安があったのだが読んでみたら、上に書いたように、ちゃんとした本でした。

ウェブ上ではすでに政治的な議論についての要点が紹介されていた。自衛隊と安保条約の憲法問題について、日本のリベラル派の主要な立場を「修正主義的護憲派」と「原理主義的護憲派」に分け、それぞれの矛盾と欺瞞をつく。

修正主義的護憲派は「新しい解釈改憲から古い解釈改憲を守ったにすぎない」として、解釈改憲に反対しているという主張を「ウソ」だと突き放す(49頁)。

他方で原理主義的護憲派は「自衛隊と安保が提供してくれる防衛利益を享受しながら、その正当性を認知しない。認知しないから、その利益の享受を正当化する責任も果たさない」のであって、これは「許されない欺瞞」であるという(50頁)。

池田信夫さんの引用していない部分にはもっとすごい炸裂トークがある。例えば日本での典型的な「リベラル派」とされるこの原理主義的護憲派の近年の堕落が著者には感覚的にかつ論理的に許し難いようで、「最近の原理主義的護憲派の論客の中には、こうした欺瞞をあっけらかーんと認めて、それが大人の知恵だ、みたいなことを言う人がいる」と実名・著作を挙げて批判。何が問題かというと、「要するに、原理主義的に護憲を世間に主張しながら、実際には自衛隊と安保を認めていることを、みずから世間にバラしている。護憲批判派が読みうる公刊された本の中で。他者の批判的視線を無視した「お仲間トーク」というのか、この神経がわからない」(51頁)

そういう行為は「いわば、通勤電車のなかでお化粧にはげむ若い女性と同じですね。その女性にとって、ほかの乗客の視線は無きにひとしく、ただのモノでしかない。こういう原理主義的護憲派にとって、彼らに批判的な人々の存在など無きにひとしく、ただのモノだと思っている。相互批判的な対話のパートナーとして認知していない」(51頁)

・・・と電車で見かけた女性も巻き込んで怒りの対象にしておられます。「還暦すぎたからといって円くなっていられない。「怒りの法哲学者」として、角を立てて生きていきますよ」(195頁)だそうですので。

井上先生にとっては何よりも、日本の「リベラル派」の言動における公共性の欠如が許し難いのでしょう。

日本のリベラル派の底浅い党派的言動への怒りと、欧米のリベラリズム思想への理論的な批判は、次元と場面を異にしているけれども、どこか通じるところがある。例えばグレイが「不寛容への寛容」を認めてしまいリベラリズムの普遍性の主張をあからさまに取り下げることや、ロールズが立憲民主主義の伝統を持たない社会へのリベラルな正義原理の適用を諦め、不平等や独裁すら一定の「節度」のもとで黙認する姿勢に、著者は失望する。これらは「寛容」の負の側面であるとする。「寛容」を主張することで往往にしてその背後で放棄される「啓蒙」の側面を著者は再度重視する。もちろん「啓蒙」には負の側面もある。しかし日本には「啓蒙」がその肯定面でまだまだ必要であるというのが著者の立場だろう。

1980年代末から90年代初頭にかけて、昭和天皇崩御から冷戦崩壊の時期に、著者は気づかされた。「保守派が言う「伝統」も含めて、戦後日本のなかに、リベラリズムの足場になるようなものが実はなかった。その怖さを実感しました。ショックでした」(106頁)

「リベラリズムは、啓蒙と寛容という二つの伝統から生まれたと言いました。
しかし、啓蒙にも寛容にも、これまで言ったように、ボジとネガがある。
両者のネガを切除し、そのポジどうしを統合させるための規範的理念が、私が考える正義なんです」(20頁)

20〜30頁あたりで、著者の正義論の骨子が、これまでになく平易に語られています。

その上で国家・国旗問題や従軍慰安婦問題、アメリカやドイツの歴史認識や「謝罪」と日本との比較、そして集団的自衛権など、政治問題といった具体的な課題に著者のリベラリズム思想を応用していく。

集団的自衛権については著者は反対だが、「なんらかの集団的な安全保障ネットワークは必要です」という。国際政治学者や安全保障研究者ではないので、具体的にどうすれば、という話にはならない。昨年の安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定によって、アメリカに対する交渉カードを政府が自分から捨ててしまった、と批判し、「安倍政権は、日本の国益と政治的主体性を本当に守ろうとしているのですか」と問いかける。違憲論ではなく戦略的に主体性がなく、戦術的に稚拙と批判するのですね。

そして日本の「リベラル派」の枠を打ち破るのが、憲法9条削除論です。

「九条解釈としては、文理の制約上、絶対平和主義を唱えているとしか、捉えようがない」(46頁)ことから、先ほどの「修正主義的護憲派」や「原理主義的護憲派」のような、嘘や欺瞞を抱え込まざるを得ない。そのため、「私は、憲法九条を削除せよ、と主張しています」(52頁)と言い切る。

「私は、安全保障の問題は、通常の政策として、民主的プロセスの中で討議されるべきだと考える。ある特定の安全保障観を憲法に固定化すべきではない、と。だから「削除」と言っている」(52頁)

この本で繰り返し出てきますが、九条があることで「リベラル派」が抱え込む欺瞞と、その状態に安住できさえすることによって極まる知的堕落が、著者にとって我慢ならないようです(正義論の法哲学者はこうでなければなりません)。

「だから私は、安倍政権の姿勢を批判する論理的および倫理的資格が、護憲派にあるかというと、ないと今思っています。解釈改憲OKの修正主義的護憲派にも、違憲事態固定化OKの原理主義的護憲派にも、そんな資格はない」「これ以上、立憲主義をコケにすべきでないと考える点で、護憲派とは違う」(54-55頁)

天皇制についての提言にも共通しますが、この著者はいくつか、いかにも思想・理論家の学者が言い出しそうな、政策論としての実現可能性はきわめて低いが論理的には筋が通った解決策を提示します。具体的な政策としてというよりも、何が政策の目的であるか、実現されるべき価値であるかという面で、深く受け止める価値があるでしょう。

もし著者のような筋道で社会の多くの人が考えるようになれば、議論はもっとずっとまともになるでしょうし、その結果としての選択もましなものになるでしょう。時に重苦しく感じられる普段の著者の文章は、そのような根本的な楽観主義に貫かれているが故に、慣れると極めて心地よい読書体験となるのです。今回の本は、苦行の部分を飛ばしていきなりハイになれるようなそんな本です(著者も?)。

「学者の言うことを聞け」というのは、都合のいい時だけ都合のいい「権威」を祭り上げて付和雷同を誘い、異論を権威主義で黙らせるといったことではないのです。根本的に、広く深く考え抜いた数少ない知性による、時に突飛にも見える問いかけを十分に聞き取り、そこから社会が民主的制度の中で判断していくということだと思います。そのために学者は一日二十四時間、頭が割れるほど考えていてくれるのですから。

 

 

【寄稿】『週刊エコノミスト』の読書日記、ついでに資源安で商社は、重信房子の出身校など

本日発売です。

池内恵「世間が関心を持つと本質は見えなくなる」『週刊エコノミスト』2015年6月23日号(第93巻第25号・通巻4402号、6月15日発売)、57頁

『週刊エコノミスト』の読書日記連載も12回目になりました。先日このブログでお伝えしましたように、今回は開沼博さんの『はじめての福島学』(イースト・プレス、2015年)併せて著者の最初の本『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)

なお今回も電子版には収録されていません。


『エコノミスト』2015年 6/23 号

今回の特集は「商社の下克上」だそうで。

資源価格の低下は中東の産油国にも影響を与えるけれども、日本の商社にも影響を与えるのですね。

私はあんまり熱心に読んでないが「名門高校の校風と人脈」という連載があって、それなりに歴史のある高校の有名な卒業生を列挙しているのだが、今回は「都立第一商業」。

重信房子がここの卒業生だそうだ。

紹介文によれば「日本では犯罪者だが、アラブ世界では英雄視されている」という。間違いではないが、これは多分に日本側に流布している言説で、あちらのパレスチナ・ゲリラ筋の間で日本と関わりがある人が義理で「重信房子」の名前を言及するかもしれないが、一般的には誰も知らない。そもそもパレスチナのゲリラの非主流派の組織や人物のことを、アラブ世界の人々の大多数は忘れている。

東西冷戦が激しかった頃の日本と欧米の言説空間の中で「重信房子」幻想が生まれただけで、あまりアラブ世界の現実政治にも社会にも関係がなかった。日本との接点がなさすぎるので微かな接点ということで重信房子は取り上げられるけれども、基本は日本側の幻想・神話であると思った方がいい。

ただ、最近暇つぶしに(暇じゃないが逃避で)、「重信房子」幻想が炸裂している1970年代〜80年代前半の娯楽小説を1円とか100円とかで買ってきて読んでいるのでそのうちご紹介したい。〜くだらなくて脳みそが溶けそうになります〜

ちなみに『週刊エコノミスト』の記事では重信房子は辛淑玉と並べられていた。

新書で資源・エネルギー問題を読むなら

エネルギーアナリストの岩瀬昇さんという方(直接面識はないが、ちょこっとだけ接点があった人のお父上であると聞く)のブログはちょくちょく見て勉強しているのだが、今日はこのようなエントリが掲載されていた

新聞などの企業・総合メディアは、専門家の個人メディアの登場により、その水準を即座に検証され判断される受難の時代には行った。刺激されて新たな水準に上がるといいのだが、諦めてしまって居直ってしまわいないか心配になる。この社説と同様なことを言って迎合してくれる「専門家」は常に現れるわけだし。そうなると信頼できる、ポイントをついた議論を求める人は、一層メディア企業を介さず個人をフォローすることになり→そうなると価値が高まるし、手も回らなくなるのである種の有料化やクローズドな媒体に移行する方向に進んで→それを知っていてお金を払う気のある・払える人とそうでない人で、知識による社会の二極分化が固定化されてしまいかねない。

私な二極分化を憂える立場で、公共的議論の場を作り水準を高めようと努力しているが、しかし企業・組織の側が硬直して、二極分化を推し進める側に回って無知な側に大量に売って生き延びよう、というつもりでいるんだったら、こちらは矜持を保てる水準の思考・言論を展開してかつ適切な読者を独自に確保して生き延びることを考えなきゃいけないな、と思う。理想への期待を放棄することなく、人間社会の愚かさに対する備えも怠らない、ということでいいのではないでしょうか。

岩瀬さんのこの本、ずいぶん売れて手に入りにくかった記憶があるのだが、社説界隈には浸透していなかったのか・・・


岩瀬昇『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか? エネルギー情報学入門』(文春新書)

「新書」という媒体のあり方、近年の実態については色々と言いたいことがあって、それについてはこのブログでしょっちゅう書いていて、また自分がいざ新書という媒体で『イスラーム国の衝撃』を出した際にも、アンビヴァレントな思いが去来したのだが(それについてもあちこちで書いている。『文學界』の最近の寄稿にも)、企業などの現場で長い間経験を積んできた方が、総まとめや区切りの意味で一冊にまとめる、という場合の媒体としては優れていると思う。

実務家の人は、いわゆるアカデミックな書き方はしない人が多いだろうが、情報や知見の実質があれば良い新書は成り立つ。本を出して生計を立てるわけではないから変なものを急いで書いたりしないだろうし。書いたら読者には役に立つし、それをきっかけに講演などが増えたりするのだろう。まとまったテキストがあると主催者・聴衆・話し手のいずれにとっても良いわけだし。

この本、私などが紹介しなくてもとっくの昔に売れてしまっていたのだけれども、改めてここでも紹介。

【ご案内】磯崎新さんとのトーク@青山ブックセンター本店(6月21日)

来週の日曜日の昼に、こんなんやります。

磯崎新連続対談 第3回 神話都市:イスラム 磯崎新 × 池内恵 トークイベント「未完プロジェクトの現場から――日本・中国・チベット・イスラムの都市と文化」2015年6月21日(日)13:00~15:00、青山ブックセンター本店

ABCトーク磯崎新・池内恵2015年6月21日

建築家の磯崎新さんと。

私は主に聞き役です。

磯崎さんがペルシア湾岸や中東の王族や政府の大規模プロジェクトにコンセプト作成の段階から関与してどのような者を見てきたか、建築家は権力を持っていてメガプロジェクトを決定・決済する人そのものの懐に入るので、普通には見られない政治や社会の内幕や、権力者の横顔について聞けるかもしれません。

イスラーム教をなぜ理解できないか(5)米保守派による共鳴

日本の「こころ教」によるイスラーム教理解の阻害、欧米のリベラル・バイアスや、ルター的宗教改革を普遍的モデルとしてしまう問題などを取り上げてきたが、そういえば、今、仕事で依頼されてこの本をずっと読んでいて、関連書籍と合わせて検討しているのだけれども(遅れています)、ここでも関連する議論が出てくる。


ウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金 上 イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか』

アメリカの保守派と目され るウォルター・ラッセル・ミードも、イスラーム教のいわゆる「過激派」と論じられがちなワッハーブ派やサラフィー主義と、アメリカのプロテスタントとの類似性を論じている。そして、ミードはアメリカの活力と指導力の発展の過程では、負の側面はあれども、「過激」なプロテスタントの運動が不可欠な要素だったと肯定的評価をしているのである。間接的に、ワッハーブ派はサラフィー主義についても、長期的に見れば、イスラーム世界の発展に肯定的な意味を持つ可能性があると示唆している。

「西洋のマスメディアでは、一方の側に、開かれた社会の自由【ルビ:リベラル】な理念と相性が良いと考えられているキリスト教の価値観を置き、もう一方の側に、イスラームの本質的な一部であるとみなされ、閉鎖的で無知蒙昧だと思われている価値観を置き、これら両方の価値観は永遠に相容れることはないと言われている。

これはほぼ間違いなく間違っている。カトリックは最終的に開かれた社会との和解に至るまでに、その社会の価値観に抵抗する長く苦い歴史を経てきた。プロテスタントでさえ、当初は開かれた社会を受け入れようとはしなかった。イスラームを外部から観察する人びとのなかには、イスラームがもっと寛容で開かれた信仰となるような「イスラームの宗教改革」が起こってくれればと願っている者もあるが、彼らは宗教改革の本質についてもイスラームの現状についてもよく分かっていない。

あらゆる文化にはそれぞれ固有の特徴があるとはいうものの、イスラームのワッハーブ派とサラフィー主義の運動およびそれらに根ざす政治運動は、〔キリスト教の〕宗教改革における最も急進的なプロテスタント諸派の運動と不気味なほど似ている。・・(中略)・・ワッハーブ派もその他の現代の改革派ムスリムたちも、イスラームの本源回帰を望んでいる。それはちょうどピューリタンが使徒時代の純粋なキリスト教への回帰をめざしたのとよく似ている。」(ウォルター・ラッセル・ミード著、寺下滝郎訳『神と黄金 イギリス,アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(下)』青灯社、2014年、242−243頁)

非リベラルな思想が主流なイスラーム世界については、アメリカの保守派の良質な部分は、ある種の共感の力を持って理解を試みている面がある。

「マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、オリヴァー・クロムウェルは、彼らの教義や主義がワッハーブ派の教義とどれほど違っているにせよ(もとより彼ら三人の教義や主義自体がぴったりと一致しているわけでもないが)、それでも現代の改革派ムスリムたちの精神と神学には多くの点で敬意を払うことだろう。
 中長期的に見れば、これは明るい兆しである。プロテスタントの宗教改革は、それにいかなる問題があろうとも、近代の動的社会を発展に向かわせる環境をつくったことは確かである。その運動から生じた宗教闘争、教義上の革命、個人の改心体験、迫害、犯罪、政治闘争は、ベルグソンのいう動的宗教【ダイナミック・リリジョン】を発生させ、ひいては新たな社会を生み出すことを立証した。今日イスラームは活発な宗教となっており、世界が激変するなかで真性の声を聴こうともがいている。これはムスリム、非ムスリムのいずれをも等しく不安にさせ、時として恐怖させる危険な現象である。だがそれはまた、偉大な文明に特有の生命力と積極的関与【エンゲイジメント】の重要な現れでもある。」(ウォルター・ラッセル・ミード著、寺下滝郎訳『神と黄金 イギリス,アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(下)』青灯社、2014年、244−245頁)

ミードは非合理的な宗教のダイナミズムこそがアメリカの躍進の不可欠の(唯一のではない)要素であるとする立場であり、であるからこそ、イスラーム教の根本理念に立ち返ろうと主張する運動が根強いイスラーム世界への、ある種の内在的理解による共感を可能にしている。

ただし保守派の多数、特に宗教右派や福音派、イスラーム教の挑戦を真っ向から受けて、十字軍で対抗しようとするので、摩擦と衝突を煽る結果を招きかねない。

これについてはミードはラインホールト・ニーバーの「原罪」を核とした議論を引いて、信念に基づく行動に内側からの抑制を課すことを、福音派などが力を持つアメリカ政治において、保守派こそが再認識するよう求めている。ここがこの長大な本の肝となっている重要なところだろう。それが安心できるものか、説得的かはともかく。

元来はアメリカの保守は、根底においてリベラリズムを共有している。ここが新世界のアメリカと欧州を分けるところである。その意味で、ミードはアメリカ保守主義の本来の姿を受け継いだ知識人といえるのではないか。


ルイス・ハーツ『アメリカ自由主義の伝統』(有賀貞訳、講談社学術文庫)

イスラーム教をなぜ理解できないか(4)「リベラル・バイアス」を単刀直入に言うと

先日紹介した、Temptations of Powerの著者Shadi Hamid氏が、‘Moderate Muslims’という小文をワシントン・ポスト紙のブログに寄せている。

「穏健派ムスリム」を探すのはもうやめよう、という議論で、欧米で(日本でもそれを一知半解に真似て)繰り返されるクリシェの批判から、根本的な思想問題に触れている。

The way we use the term, “moderate” means little more than “people we like or agree with.” Almost always, it signals moderation relative to American or European standards of liberalism, freedom of speech, gender equality and so on.

「穏健派ムスリム」を持ち上げて、「イスラーム国」などの「過激な」「本来の姿ではない」「多数派ではない」の価値を落とそうとする議論はごく自然に行われているが、中東の実態、宗教教義の実態を知れば、単純にそうは言い切れなくなる。ここでハミードは、「穏健派ムスリム」と言うときは、実際は欧米のリベラルな基準から、言論の自由やジェンダーの平等などを受け入れる相手のことを言っているだけで、要するに「欧米人が好きになれる相手、合意できる相手」と言っているに過ぎないのだ、と喝破する。

そんな欧米人に気に入られることを欧米で言っている人たちは出身国に帰ると「穏健派」とはみなされておらず、単にout of touchだと思われている、という。

Yet in their own countries, people who want to depoliticize Islam and privatize religion aren’t viewed as moderate; they’re viewed as out of touch.

中東を相手にしているとごく普通に感じられることをそのまま書いている。これが欧米の知識社会では言いにくいんですよね。言うとイスラーモフォビアに毒された非文明人であるかのように扱われてしまう。

エジプトのような現地の国では社会全体が保守的なので、世俗主義者でさえ非常に非リベラルな信念を報じているのだ。

The search for moderate Muslims misunderstands the nature of the societies we’re hoping to change. It would be extremely difficult to find many Egyptians, for instance, who would publicly affirm the right to blaspheme the prophet Muhammad. The spectrum is so skewed in a conservative direction that in countries like Egypt, even so-called secularists say and believe quite illiberal things.

欧米の議論は、なぜムスリムはリベラルで世俗的な時代に加わってくれないのか、というフラストレーションを抱えている。しかしこれはいかに善意であれども生産的ではない、見下した態度だ、という。

The subtext of so many debates over Islam and the Middle East is frustration and impatience with Muslims for not joining our liberal, secular age. However well-intentioned, such discussions are patronizing and counterproductive.

日本で俗に言う「欧米のイスラーム理解は間違っている!」という主張とはかなり異なった思想的課題があるということがよくわかりますね。通説は「本当はムスリムはリベラルなのに、そうではないとする欧米のオリエンタリズムが間違っているんだ」という議論なのです。実際に中東に行って議論をすれば、それは嘘だということはよく分かります。日本の俗説は、「中東」を根拠にして「欧米」を叩いているふりをしながら、実際には欧米の特定の学説を権威として掲げて日本での言説支配の手段とし、要するに流用しているだけのことが非常に多い。

俗説や「権威」に流されずにモノを考えるのが思想史。本当に考えるべきことを考えていれば、視野が開けてきます。