世界を見るためのインフラを誰がどこで作っているのか

今朝(6月16日)のFacebookへのポストを転載しておきます。日経新聞のニース・テロに関する記事「呼応テロ、世界に拡散 ニース襲撃で仏政権打撃」 (2016/7/16 0:53)を素材に(特にそのタイトルを素材に)書いてみたものです。

ジハード主義のテロは組織の指揮・命令ではなく、共通の理念への義務を訴える扇動に「呼応」するというメカニズム、一般に理解されてきたと思う。

みなさん気づかないと思うけど、分散型のジハード運動に「呼応」するといった言葉一つだって、学界の大勢に抵抗して、「問題のある人」「反イスラームの人でしょ」と(文字通り)致命的な陰口を叩かれながら、私が言い続けていなかったら、現在このような報道にはなっていないと思う。文系の学問の必要性を示すためにあえて自画自賛しておきます。

書いている記者がどこまで学問的な成果を意識しているかは知らない。当然である。すでに流通している観念を踏まえてなんとなく書いているだけだろう。

問題はまだ流通していないものを流通させる段階を誰が担っているのか。それは学界の場で担われているのであり、しかも学界の支配的な勢力の通説はしばしば短期的には間違う(間違いが是正される制度が組み込まれていないと、中期的・長期的にも間違い続ける)。

私が学界の通説に従っていれば、今もなお、学界も、それに従って社会も「イスラームは平和的なのでテロは関係ありません」と言い続けているでしょう。イスラームはある意味で平和的だけど、権力や軍事やテロにも関係することがあります、ということは、言ってしまえば簡単に見えて、実はそう簡単に言えないことなのです。共通認識になってしまった後は、「当たり前でしょ」という話になるが、誰がどうやって「当たり前」にしたのか、少し考えてみてください。

みなさんが使っている言葉の一つ一つを、誰が調べて、定義して、使えるものとしているのか、考えてください。これまでになかった、あるいは見えていなかった事象についてそれを捉えるための概念とは、突然どこからか降って湧いてくるわけではないんですよ。

対象を認識し、適切に概念化する作業を誰かがどこかでやっていないと、社会全体が誤謬を信じ、誤った論理でやりとりすることになる。そういう社会はいっぱいある。日本も色々な側面では誤謬を信じている。もちろん西欧もアメリカも、部分的に誤謬を信じている。

重要なのは学習すること。学習できる制度と人と空間を作っておくこと。それがある社会とない社会には、大きな違いがある。

「呼応」なんて一般概念だから誰が使ってもいいと思うかもしれないが、ジハード主義の組織メカニズムがそのようなものであると示しておかないと「組織的なつながりがないからテロではない」といった話になってしまう。「組織的なつながりがない、理念によって自発的に動員されるテロがあり、それはジハード主義の運動として認識されているのですよ」と示しておいたので、現実の動きを見て「呼応した」と認識できる。

命令されたり強制されたり騙されたりするわけでもないのに「自発的に呼応する」というのは、英語では言いにくいものなので、日本語で研究をしていることの利点でもある。世俗化した西欧社会では紙に書かれた宗教規範を、一定の人たちが勝手に読んで勝手に触発されるという現象を理解しがたい。単に「遅れている」と思ってしまう。

昔こういうことを含むジハード主義によるテロについて書いたところ(正確には、呼ばれて外務省の中の研究会でその文章を元にこのテーマについて話したところ)、大使の奥さんで大学教授、という人にレジュメと配布資料が渡り、「池内は反イスラームである」といって役所の外郭団体の雑誌で常軌を逸した攻撃文を書かれ、ばら撒かれた。しかも、役所の外郭団体というものは、大使夫人には頭が上がらないから、反論の掲載も許されなかった。私はこういうところが、日本の役人社会のダメなところだと思います。勝手に身分制を作っている(ただし大使夫人の旦那はノンキャリだが、一般社会に対してはえらく傲慢なご夫婦だ)。

その攻撃文が日本語ウィキペディアの私の項目の元になってしまっていたりする。下らない。日本の集合知とはその程度のもの。

私なりの落とし前のつけ方は、絶望はするが、あきらめず、弛まず研究を続け、出せるところで必死に実績を出し、是正の機会をうかがうこと。あきらめません。

何年も経って大使夫人が攻撃文を載せた媒体を出す外郭団体への役人天下り組や企業出向組が人事異動で入れ替わった頃に、そこから連載を依頼された。それ以来連載をずっと続けていることは、私の誇りです。

ま、こんなことを書くと問題視されて連載が中止になったりするかもしれないが、損をするのはその媒体を読んでいる読者であり、日本の中東業界の人である。

世界は完全ではないが、無知と無知に依存した権力に対する抵抗とはこういう積み重ねだと思う。

天下りは人口学上増えすぎていて、現役世代に必要な資源が回らなくなっているので、時々バッサリ整理せねばならない気はするが、殺生は好まないので、ほどほどにやっています。ただ、役人の奥さんまで権力を持つのはやめてほしい。あくまでごく一部の例だが、アラブ関連は社会の辺境なので、変なのも多く巣食っている。役所世界は役所を守るからそういうものを問題視すると問題視した側が排除される。

テロの時代の論理と倫理

7月1日のバングラデシュ・ダッカのカフェ襲撃事件について、NHK地上波の土曜日朝の番組「週刊ニュース深読み」で「”親日国”でなぜ? バングラデシュ テロの衝撃」が放送されていたのを見て、書いてみました。

ゲストの人たちは開発援助関係の人が多く、個々に言っていることは間違っていないと思うが、問題はそれらを全体として意味づける時に全員が少しずつ従う「空気」であり、その積み重なりによって方向付けられる結論と、そもそもの問題設定と前提のいずれもが、おかしな論理で成り立っている。なぜこうなるのだろうか。

以下はFacebookで朝に発信したものです。アゴラにも「日本でテロ事件の議論が見当はずれになる背景」として転載されました。

バングラデシュの事件について、NHKの土曜日の朝の解説番組を見ていたら、やはり日本での議論の仕方は、やはりテロ事件に対する反応としては、全般に見当はずれであった。

日本の議論の仕方で面白いのは、殺された側である日本社会の側が、反射的に「あれが悪かったのではないか」「これが悪かったのではないか」と忖度すること。

いやこれ、毎回毎回繰り返されると、文化人類学的な対象として、面白いと思う。学校のいじめで、「いじめられた方も何が悪かったか考えろ」という「空気」を教師と学生の両方が共有して、もっぱら被害者の方を「教室の和を乱す原因を作った」と追い詰めていく構図も、ここから来ているのではないか。

和が乱れる事件があったら、まず被害者側に「落ち度がなかったか」を問い、改めさせる。それによって将来にまた和が乱れることがないことを祈る。それが日本の「平和」なのだろう。

イスラーム教という神の絶対規範を基準にしてテロを行う相手に直面するという心理的な苦痛を、日本社会の「和」を尊びそれぞれが(特に弱い立場が)自分の「落ち度」を省みて忖度するという反応で、なんとか収めようとしている。

結局「現地のためになる支援になっていなかった」「現地のことをよく知らなかった」という話になってしまっていた。論理展開はもちろんずれている。論理的でない議論は日本のテレビではよく見るので、いちいち指摘していられないから普段見ないのだが、仕事に関わるときだけは見ざるをえない。

出ている人たちは、日頃から非論理的に話をしている人たちではないと思うが(特にゲストの人たちはそうだろう。NHK 社員の人たちはもしかしたら普段から非論理的なのか?と思ってしまったりするがわからん)日本の公的な場所で表出される議論はなぜこう非論理的になるのだろうか。

そもそも日本の支援と欧米の支援には違いがあり、どちらにも利点と失点はある。日本人の現地社会の接し方と欧米とも違いがある(場合もある)。

特に日本人が狙われたわけでもないという大前提も踏まえられておらず、またも「親日国なのになぜ」という誤った問いを繰り返している。

そして結局は、「バングラデシュは親日だが支援が悪かった→テロが起こった」といういくつもの論理的誤謬を含んだ因果関係につなげてしまっている。

「支援が悪かろうが良かろうが、テロは起きます」という現実を提示しては、「番組にならない」と考えるので、「場の空気」を必死に皆で守ろうとするのだろう。しかしこれこそが論理の放棄である。

もちろん番組で提示された新たなタイプの支援は、うまくいけば、悪いものではないと思う。ただし、規模はとてつもなく小さいし、それでバングラデシュの貧困も、バングラデシュのエリート層の抱えるコネ社会から汚職から傲慢なテロの思想の広がりといった問題も、解決できない。「援助をしたとしても、すぐには全体を変えられないが、そもそもすぐに全体を変えられない、当事者たちがそもそも変えられない構造があるから援助をする」というのがそもそも援助なのである。

このような援助の本来の考え方からは、「援助をしてもテロは起こるし、援助が一定の成果を上げて社会が底上げされればやはりテロをやる中間層が増えるということは当然予想しないといけない。それでも援助はやるんです」と言えないのであれば、わざわざお金を出して援助をやることに私は反対だ。人のお金を使って自己満足をすることは倫理的な行為ではないと私は思う。

NHKの番組では、結局「よくない支援をしたからテロが起こった(のではないか)」という話になってしまっている。しかしこれが日本社会の「ことの収め方」なのだろう。

事件が起こったことを機会に、いや事件が起きても起きなくても、支援はもっとよくなるのではないか、と検討するのは良いとは思う。しかし大前提は「支援をしてもしなくても、支援の仕方が良くても悪くても、別の理由でテロは起きる」ということであり、その厳しい現実になぜ目を向けられないのか。なぜそこから目を背ける言説をせっせと人々が生産するのか。これが不思議である。

それは「メディアが悪い」などということではなく(もちろんひどく悪いが。私はNHKBSだけは有益だと思うので、地上波はBSを成り立たせるための隠れ蓑として存在してくれているだけでいいと思っている。膨大なコストだが、それがなければBSの存在は許容されないだろうから、いいのである。無知にはコストが伴うのである)、もっと根深い、日本社会の問題であると思う。

「イスラーム教を理解していなかった」「いやそれよりもバングラデシュを理解するべきだ」といった話にもなっていたが、理解することは大変大切ですが、テロも理解しないといけません。

それによって、「理解していようがいまいが、テロをやってくる相手は別の論理と正義があってやってきますよ」という理不尽な現実に目を向けざるをえなくなるが、これに抵抗する日本社会のものすごい力を感じて、いつもながら、土曜日の朝から疲労するのであった。あまり生産的な疲労ではない。

イスラーム教を理解していなかったからといって殺される理由はない。それが自由主義。小難しいことを言うまえに基本を押さえないといけない。でもその自由主義は、日本には十分にないのだね。