新コーナーです。
「イスラーム政治思想のことば」と題して、イスラーム政治思想の有名な著作から一節を抜き書きしたり、イスラーム政治思想を論じる際に不可避の論点を特定した、長期的に残る研究書の名著から、主要な論点に関わる部分を転記して、簡単なコメントで補足します。
まず、近代のイスラーム政治思想を論じる際の最も大きな論点である、リベラリズムについて、古典的な研究書から少しずつ抜き出していきましょう。
まず、最初の数回にわたって取り上げるのはウィルフレッド・キャントウェル・スミスの『現代イスラムの歴史』(中村廣治郎訳)です。
原著はWilfred Cantwell Smith, Islam in Modern History, Princeton University Press, 1957です。
邦訳書は、中村廣治郎先生(私の学部時代の先生です)による翻訳で、1974年に紀伊國屋書店から『現代におけるイスラム』として刊行され、それが1998年に題を改められ上下巻で中公文庫に入りました(現在は絶版のようです)。
キャントウェル・スミスの該当書(訳書)からの抜書きは、実は今回このために新たに作成するのではなく、2013年8月26日に、Facebookのアカウント(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi)でフォロワー向けに書き記したものがあるので、それを探してきて、転記します。
なぜ2013年の8月に、イスラーム教とリベラリズムに関する古い研究書から読みどころを抜粋して紹介する作業をしていたかというと、おそらく、2012年6月に誕生したエジプトのムスリム同胞団の政権が、軍との対立を深めて2013年7月のクーデタで放逐された、その余韻冷めやらぬ時期であったからだと思います。エジプトの「革命」のサイクルを一通り目撃した上で、一連の動きを根底で規定する理念的な問題に考えを及ぼすと、アラブ世界の近代のイスラーム思想の発展の抱えた限界、特にリベラリズムの発展の限界について取り組んだ、古典的な研究書が現在でもなお有効であることを思い知らされざるを得ませんでした。
エジプトの2011年の「アラブの春」から2013年のクーデタまでの間にリベラル派が見せた振る舞いや、それと対象的で、競合・対立したムスリム同胞団の思想と行動、あるいは軍の動きとそれを支持する多数の市民の存在は、50年以上前のエジプトを対象にしてこの研究書が特定していたイスラーム教とリベラリズムの間にある問題を、今でもなお根強く存在していることを、あからさまに思い出させるものでした。この本の、時代を超えた有効性が明らかになった瞬間でもありました。
Facebookでまだそれほど多くの読者がいなかった(直接知っている人たちだけが読者だった)頃に、試験的にFacebookに主要なテキストの主要部分を抜書きしてみたのですが、Facebookは検索機能が弱いとか、アカウントがない人が見られないといった理由から、古典的な文献の抜粋を恒久的に提供して議論の支えにするという目的には相応しくないと考えて、試みが途絶していました。
その後このブログを立ち上げ、読者が増えたFacebookと連動させたり、ブログ上の様々な試み、例えば現代中東情勢のリアルタイムの分析などが、『フォーサイト』の固定ページとしてスピンオフしていきましたが、今回、このブログで、恒久的に、イスラーム政治とその分析に関わる主要な文献の、エッセンスを伝える部分を、日本語で提示しておく欄を設定してみようという気になりました。
今回転記する抜き書きを作成してから4年近くが経ちますが、「アラブの春」や、それをきっかけに新たに活動を拡大したイスラーム主義のさまざまな現象を対象にする論文や本を書き続ける中で、今度は私自身が立て続けに「イスラーム教とリベラリズム」の思想問題に取り組み何らかの形で解明する学会報告や論文提出を次々に求められることになり、自分の頭の整理のためにも、それらの学会報告を聞き、論文を読む人の予備知識のためにも、あえて論文に引用しないかもしれない、大前提となるテキストや、古典的で今も生きている研究書の著名・有力フレーズを、ブログで蓄積してデータベース化しておくことが有益と考えるに至りました。
今後私が書く本や論文を読む際にも(これまでの本を読む際にもそうですが)、「イスラーム政治思想のことば」に載せられているテキストは、前提中の前提になっていると考えていただけるといいと思います。
今日はまず、2013年8月にFacebookにメモしておいたこの本の紹介を転記します。今回は私が書いた解説的な文章で、まだスミス=中村訳の本文からの引用は出てきません。明日から本文そのものからの引用が始まります。
「イスラーム政治思想のことば」と題した新設コーナーの第一回が、政治思想のテキストそのものではなくそれに取り組んだ古典的研究書を取り上げることになってしまっていますが、今後はもちろん中東のイスラーム政治思想家のテキストそのものから見繕って、今現在の問題を見る際に有用なものを、紹介しようと思っています。
***
アラブ世界の現在を理解するために「一冊」を挙げよと言われるなら、下記の名著です。W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(中公文庫、1998年)
なぜアラブ世界で自由主義が短命に終わるのか、自由主義者はその数に比してなぜ過度に発言力があるのか、しかしなぜ肝心な時になると逃げてしまって軍人が出てくるのか、ムスリム同胞団の伸張は社会と歴史の何を背景にしているのか、その限界はどこにあるのか・・・1957年に出版されたものですが、今の状況に照らし合わせて読むと怖いぐらいに良く当たっています。
考えてみればこの本が出たころは、1920-30年代のリベラリズムが衰退し、ムスリム同胞団が伸長し、政治暴力・衝突が激化し、1952年に軍が介入。1954年には議会再開を求めるリベラル派のナギーブ初代大統領とムスリム同胞団を両方ナセルら青年将校たちが排除して、その後長く政党も団体活動も禁じ、メディアを統制し、軍を翼賛するプロパガンダを開始していった。ムバーラク政権に繋がる独裁・抑圧体制が立ち上がったころです。
その頃の状況や構図と現在のものは、非常によく似ている。カナダのマックギル大学教授のスミスは思想史と現代社会分析の双方で優れた人です。訳書は1974年に紀伊國屋書店から出て、その後1998年に上下巻で中公文庫に入っていたのですが、絶版なようです。
「アラブの春」が暗転している現在、近代にアラブ社会が直面している問題についての洞察力を得るのに、最良の一冊ですので、ぜひ再刊してもらいたいものです。(2013年8月26日)