震災アーカイブをイスラーム教から考える──聖伝承ハディースは「ビッグデータ」だった

今日は土曜日ですが、先端研に出てきまして午後から夜まで研究会。

東北大学の災害科学国際研究所から柴山明寛先生をお迎えして、東日本大震災のアーカイブについてお話を伺い、議論をさせていただきました。

大変刺激になる一日でした。

震災をどう記録・記憶するか。これは「ビッグデータ」に関わる問題で、文理融合で取り組むに値する課題です。

東北大・災害研ではすでに理工系から民俗学に渡る幅広い領域のデータを包括的に集積する体制を整え、「みちのく震録伝」というインターフェースで徐々に公開も始めています。

色々と縁があって、私も含め先端研の人間が昨年は東北大に視察に伺わせていただきました。その時にもご案内いただきお話を伺った柴山先生に、今回は先端研に来ていただいてお話を伺いました。

東大・先端研側では、ヴァーチャル・リアリティの先端技術応用によるアーカイブの活用についての諸提案や、気候変動科学、都市工学、あるいは行政学などの立場から、応用や共同作業の可能性、あるいは共通に抱える課題など矢継ぎ早に発言があり、大変盛り上がりました。

私のようなイスラーム思想・中東研究という一見かかわりのなさそうな分野の人間にとっても、非常に刺激的でした。震災という巨大で総合的な事象に関するビッグデータをどう収拾し、どう扱うかは、二つの意味で私の今やっている作業と重なります(研究の規模は気が遠くなるほど違いますが)。

(1)中東政治研究では、「アラブの春」という未曽有の社会・政治変動を、従来の「公文書・新聞・雑誌・書籍」といった限定された活字媒体の資料だけでなく、電子的な媒体によって精製・流布・拡散された映像、画像、言説、音楽、シンボル、通信データそのもの、といった多種多様な資料を包括して記録し、それをもとに政治分析や歴史記述を行うという作業が大きな課題です。それは、自然災害と人間社会の大変動という違いはありますが、東日本大震災の記録と記憶というテーマとどこか共通するものがあります。それは、総合的な大変動についての記録を、包括性・客観中立性を保って収集、保存しながら、さまざまな人たちの主観的真実を反映した形でどう記憶していくか、という課題です。

(2)イスラーム思想ということからも、震災アーカイブを最先端の技術的手法で構築しようとしている東北大・災害研のプロジェクトは興味深い示唆を与えてくれました。

イスラーム思想の根幹、あるいは規範的典拠となるテキストは、コーラン+ハディース。

コーランは神の言葉とされ、7世紀にアラビア半島で預言者ムハンマドに下されたものがそのまま記録された形になっています。それが信者以外にとっても客観的な事実かどうかは別にして、少なくとも信仰者にとってはそのようなものとして認識されています。そしてそれはコーランという、アラビア語なら一冊に収まる「容量」に収まっています。

イスラーム教の興味深いところは、単にコーランは神の言葉で絶対でそれを典拠に現実世界を読み解いていく、というだけでなく、コーランの規範を現実に適用する際に、それを「正しく」読んで適用するための補助的典拠としてハディース(預言者とその周囲にいた教友の言行録)という形の、こちらは膨大な数のテキストが残されていることです。

ハディースは、コーランとは異なり、全てのハディースの説話のすべての部分が「真正」なものであるとは考えられていません。それでも「全部」一度は修正して書き留めた、という形式になっています。膨大な数のムハンマドの同時代人たちがその子孫や友人・知人(とその子孫)に口承で伝え残した、ムハンマドに関する膨大な言行の記録がハディースです。

細部がちょっと違っていたらそれだけで別の話と考えて、ちょっとした異同があるだけで、中身はほとんど同じ無数のヴァリエーションも含めて、膨大な数が記録されています。

各種のハディース集とは、編纂者たちが、それぞれの関心に合わせて、膨大なハディースの全体から選んできて、整理し分類して本にしたものです。その中で最も「真正」なものと判定できるハディースばかりを集めたと評価が高いのがブハーリー(西暦810生-870没)の編纂になるもので、日本語訳の中公文庫版では全6巻になります。

「あまり真正じゃない」のではないかと言われるものも含めればその何倍・何十倍もの量のハディースがあることになります。

「あまり真正じゃない」ハディースには、内容面で荒唐無稽でムハンマドの時代や場所にはなかったであろう事象が書かれているとか、その内容を後の時代に口承で伝えた伝承経路、つまり「伝えた人(およびその伝え方)」に問題があると見なされているものなどがあります。

面白いのは、あんまり真正じゃないと衆目の一致するハディースまでなんで残したのか?ということです。疑いがあるんだったら最初から「ハディース」として認定しないで単なる伝説とでも呼んでおけばいいわけです。宗教解釈が混乱しかねないのになぜそんなものまでハディースとして広い意味で典拠テキストの中に入れておくのか。

現代の目から見ると、ハディースは「アーカイブ」です。それもビッグデータ的な。通常の宗教解釈上はどうでもよさそうな、単に一人間としてのムハンマドの行動や癖や好みとか、単に宗教団体の指導者として、あるいは教団国家の政治指導者として、周りで起こったことに迫られて判断を迫られたに過ぎないような事例や、端的になんだかよく分からない話も、多く取り入れられています。

それらは通常は全く顧みられることがないともいえます。

しかしいざ何かのきっかけで、新たに生じてきた物事に、何が正しくて何が正しくないか、この状況下ではこの人は何をするべきか、といったことをイスラーム法上考えないといけなくなると、この「よく分からないけど記録してあった」ハディースは役立つかもしれないわけです。

コーランのレベルでは一字一句変わることのない不変の規範というものを設定した上で、ハディースでは本当か嘘か分からないものまで含めて緩やかに「ムハンマドとその教友の言ったことやったこと(として伝えられていること)」というくくりで広く規範的典拠となる可能性のあるデータを記録しておき、必要に応じてアクセスして解釈し判断を下す。

イスラーム教の規範体系は、コーランという原則を定めつつ、それを具体的にどう解釈して適用するかについては、ハディースという「アーカイブ」に、その時その時の問題に応じてアクセスして参照し、結論を出すというシステムになっています。そこから、厳しさと幅の広さの両方を含んだ独特の規範体系になっていると感じられます。

アーカイブをこれから構築する場合、どのような記録・情報の集め方をすればいいのか、どのような利用の仕方(そのインターフェースの設定)をすればいいのか、という問題が生じます。東日本大震災のように、これまでにない規模の災害であるだけでなく、技術の進歩により、それを記録するデータが過去の災害の時と比べて格段に多く、データの形式も多様である、という場合、その巨大なデータをどう集めてどう記録するかという問題と、そこから何時誰が何をどのようにしてどう引っ張り出すことで「記憶」を紡ぎだすか、それをどういう制度・技術的インターフェースで実現を担保するか、という問題が、大きな課題となります。その取り組みの先進事例をご紹介いただいたのですが、しかしこれは、普遍的に世界宗教がやってきたことと形式は似てくるのではないか、と思ったのです。

イスラーム教の、コーランとハディースという、性質とデータ形式・量が異なる二種の典拠テキストを設定するシステムは、ビッグデータ時代のアーカイブ構築と利用に、何らかの示唆を与えてくれるような気がします。