アートだ。
「古書店で“バカの壁の壁”を建設中! 大ベストセラー作品をモチーフ」THE PAGE 5月27日(火)10時0分配信
名古屋に「バカの壁の壁」建立中。
本屋に行ってもいい本がない。
最大の原因は新書の低質化。
新書はかつて「定評の高い信頼できる入門書で、いつでも本屋に置いてある」というものだった。
それが今や、「月刊誌の信憑性の薄い特集記事一本程度を薄めた消耗品で、出た月の翌月にはもう置いていない」というものに成り下がってしまった。各社が複数のレーベルを持ち、毎月決まった数を必ず出さねばならないから、書き手も払底し、本屋の棚も奪い合いになる。
新書が「揃っている」本屋などもはやない。今月出たものが置いてあって、翌月には大部分撤去されている。月刊誌、週刊誌記事レベルのものになってしまった。
新書という制度の劇的な変質の画期は、2003年の新潮新書の創刊。
創刊の目玉が『バカの壁』だった。これが400万部売れて、各社が競って参入。新書というジャンルだけでなく、出版と本屋全体の生態系が致命的に損なわれました。
新潮社は確信犯だ。創刊の辞にもあるように、新潮社の本分は「文芸」と「ジャーナリズム」。
つまり「学術」は入っていない。
「学術」にこだわらずに、文章として面白いものを面白く、ジャーナリズムとして伝え、広め、売る。このコンセプトはそれまで、幻想や誤解や思い込みも含めて「学術」の一環であることにこだわっていた新書というジャンルに衝撃を与えた。
新潮社の人たちは、その行為がいわば「川上から毒を流すこと」であるのを承知で、「低質化」を伴う新たなタイプの新書の姿を提示したので、それはそれでいい。
問題は、各社が「これが良いんだ」と思い込んで追随し、壮大で消耗的な「底辺への競争」が始まったこと。
そしてそういう出版社に迎合して毎月のように、「学術」抜きのジャーナリズムの走狗となって名を売る「学者」も現れるようになった。大学(特に、経営の苦しい私大)もそういった有名なだけで業績のない先生を重用するようになった。「学術」の生態系も影響を受けて崩れ始めたのだ。
私自身は、2002年に最初に出した本『現代アラブの社会思想』が新書だった。学術論文を手直ししてそのまま新書にした、今の基準では到底出してもらえないような種類のもの。
他に手段がなかったところに道を作ってくれたことで、新書というジャンルとその作り手(編集者・出版社)に感謝と敬意の念がある。
新潮社には『フォーサイト』でお世話になってきた。似非「学術」におもねらず、「ジャーナリズム」として報道・論評するという姿勢は筋の通ったものだ。
それと同時に、新潮新書で新書の大量生産・短期消費・低質化への口火を切ったことには、功と共に罪が大だと思う。
(昨日都内某所で、「でも新書の変質の口火を切ったのは岩波新書が1994年に出した永六輔『大往生』だよ」と言われた。まあ確かにそれはそうだ)
私が2002年の最初の本以来新書を書いていないのもそのような思いから。
バカの壁の壁の崩壊はいつ来るのか。出版界の生態系を致命的に壊したブラックバスのモニュメントはどこまで大きくなるのだろうか。