【寄稿】『外交』に「イスラーム国」をめぐる中東国際政治の総論を

ワシントンDCでの短期集中詰め込み勉強から帰ってきて時差をかろうじて直して、本の執筆複数が佳境に入ってきて、とてもブログに戻ってくる時間がない。

11月末に出ていた。「イスラーム国」に触発されて中東地域の国際秩序にどのような変化が生じかけているか、ここのところよく話したり書いたりしているものをまとめました。

池内恵「中東の地政学的変容とグローバル・ジハード運動ーー引き金を引いた「イスラム国」」 『外交』Vol. 28, 2014年11月30日、22−29頁

「異次元動乱ーー世界を震撼させる「イスラム国」」という特集をパラパラめくってみて思ったのだけれども、「イスラーム国」は専門家にとって、どのような理論的・思想的な姿勢を持って対象に取り組んできたか、非常に細やかなリトマス紙になる。

「イスラーム国」というものは、「何もかも植民地主義が悪い」→「固有の理念に基づけばうまくいく」→「だから運動だ」という類の、外部が中東に投影してきた現状打破への思い込みを見事にすべて反映してしまっている。中東に「反米」の期待を託してきた外部世界の想いを全て体現してくれているといっていい。同時に、そのありとあらゆる悪い面を露骨に表出してしまっている存在だ。

日本での中東をめぐる専門家あるいはそれに曖昧に根拠付けられた「思想家」の議論は、要するに中東の諸問題が何もかも植民地主義時代の政策に由来していると主張する「原因論」に大幅に依拠してきて、全く疑わない。自分がそのような言説の枠に嵌っていることにももはや気づけなくなっている場合が多い。観念的な原因論を追認するような「因果関係分析」が次々と提供されるので、異なる視座を構築してみる機会が阻害されているのかもしれない。

私は植民地主義の遺産は、一つの要因として着目することは否定しないけれども、それで全てを論じ、さらには「だから今起こっている問題は欧米が悪い」という「責任論」「非難」に転化させることは論理的な混乱が大きいと指摘してきた。さらに遠い日本でそういった「原因論」と「責任論」をごちゃ混ぜにして、中東に関わる特定の人々の狭い世界で同調圧力を掛け合って高揚して、「運動」することが大学の研究者の本分であるとする業界の主流の考えにはまったく同意できなかった。

そもそも「植民地主義原因論」ばかりが出てくる理由が、日本の大学のシステムの中で中東研究は、法学部や経済学部など現代の問題を扱う学部ではほとんどポストがなく、もっぱら西洋史や東洋史など歴史系の学部出身者が取り組んできた=だから単に植民地主義の時代までの「古い時代」を専門にする人しかいないので、70年前とかの話が常に今現在の事象の「原因」として主張される一方で、2ヶ月前とか3年前の話はうろ覚え・・・という実態を見て、個々の教員の能力とかやる気以前に、背後に「制度的要因」があるな、と気づいた。それからはいっそう、「植民地主義原因論」は疑わしく見えるようになった。

日本では、偏差値的な受験システムと一体となった形で、学部段階でどこを出たかでその後の長い人生での専門と所属する専門業界が固定化されがちである。その制度的な制約から、西洋史や東洋史やアラビア語学といった専門学科が主体となる中東専門業界では、一方で歴史学者が強みとする「植民地主義の時代」にのみ注目して現代までも語ってしまう風潮を是正するきっかけが生まれず、他方で「政府の新聞を毎日読んだらこう書いてあるからこれが真実だ」という類の極端な語学原理主義に結びつく。政府の新聞を読むと「植民地主義が悪い」と書いてあるので、歴史系と語学系で議論は結局似たようなものになります。

でもこれらは方法論というよりは、単に出身学部に基づいた自己主張と勢力争いではないか・・・と感じ始めたら、茨の道を歩むことになります。でも学問は基本的に孤独な作業ですのでそんなものです。不満ということではありません。現実を描写しているだけです。

そのような日本の中東研究の支配的イデオロギーや、イデオロギーの根幹にある部局対抗の論理・自己主張を疑うことなく内面化してきた論者たちが、「イスラーム国」の出現という形でいざ本当に、(1)非欧米の固有の価値規範を掲げて、(2)植民地主義の負の遺産を払拭すると主張して、(3)欧米が引いた国境や政治体制を破壊する行動に出る運動が出てくるという、外見上は明らかにこれまでの中東研究で理想として期待してきたはずの要素を備えているが、しかしきわめて印象の悪い存在が現れてきてしまうと、それにどう反応するかが、リトマス試験紙のようになる。

思想的なフィルターにかけて都合の悪い部分を捨象して歓喜してしまう場合と、現実の前にうろたえてしまう場合に分かれる。

一方では、運動のとてつもない非生産性や残虐性といった負の側面に目をつぶって、「近代の超克だ」と期待をかけ、「欧米の報道がデタラメ」と言って否定的報道から目をそらしたり擁護したりする場合がある。非常に不用意だとは思うが、正直で一貫しているとは言える。一貫していれば正しいわけではないが。

他方であまりにも現実が酷いので「これまでの諸勢力とは違う」と何となく異端視してみせてこれまでの議論からの切り離しを図ったり、極端な場合は「ゴミだ」(・・・あんまり分析には使わないと思うんだが、今回使われているのを見て、反応に困っている。気持ちは分かるが、こう言ってしまうと議論や分析がその先に成立しません)と切り捨てて距離を置いたりする場合がある。

これらの中間にあるのが、「イスラーム国も悪いかもしれないが、欧米はもっと悪い」式の議論。これは基本的に何も言っていないで、逃げているだけですね。「イスラーム復興」してイスラーム法を施行したら理想社会が実現するはずだったんじゃなかったの?

自分の言ってきたことの現実との不整合を問わせず、「偉い」お立場を確保してその上からお説教をしてもっともらしいことを言えば、「下」の立場はそれを批判しないでありがたがらないといけない、という言説の構造こそが日本の弱点。

自由な思考を阻害されて自足した民は立ち遅れて負ける。負けたくない人は付和雷同せずに自分の頭で考える力を身につけましょう。

若いときにラディカルに現状否定・体制批判をしたような人が齢をとると権威主義(あるいは露骨な権力主義)の偉い人になりがちなのも興味深い。権威批判・権力批判をする人は、実際にはとてつもなく権力がお好きでお好きでたまらない人である場合がある。今はフェイスブックやツイッターなどでそういう本音が、本人が気づかずにダダ漏れになったりするので、透明性は高まった。

「イスラーム国」は、これまで中東に反米論の根拠を求めてきた人たちが、中東に潜在的・顕在的にあると主張してきたものを全て備えていると言っていい。もし反米の「理想」論が実現したら、負の側面の影響で大変なことになるよ、という批判はこれまでは「意識が低い」と退けていればよかったんだが、「イスラーム国」が出てきて身をもって負の側面を示してしまうと、これをどう説明するかが大問題になる(はずだ)。

日本は中東を植民地支配したわけではないので支配者としてのイデオロギーを構築してきてはいない。しかし同時に日本独特の言説空間の中で「中東」に特殊な意味をもたせてきて、それが中東専門業界の存立の根拠となるイデオロギーとなってきた。「イスラーム国」はそのイデオロギーで描いた理想や論理を、ほとんどそのまま現実化していて、しかし明らかに異常で不穏当に見える。そのために、非常に不都合な存在なのではないかと思う。

なお、『外交』に寄稿した私の論考は、ここで記したような日本側の問題に取り組むものでは全くなく、国際政治論として「イスラーム国」とそれにまつわる情勢を整理しているものです。