昨日の「「こころ教」のガラパゴス」(2015年6月10日)が随分シェアされて、いいねが1100を超えている。イスラーム教の宗教規範について、日本の規範と対比させることで理解しやすくなった人もいるのではないか。
日本では「こころ」に特化した宗教認識が広がることで、それを「常識」「普遍」と受け止めてしまい、それに合わないイスラーム教が「宗教ではない」ように見えてしまったり、「真のイスラームはそんなものではない、もっとひとりひとりの『こころ』を大事にしたものであるはずだ」と強弁して中東の現実から目を閉ざしたりしてしまう。
これについては、読んだ人自身が思い当たるところがあったのではないだろうか。イスラーム教をなんとか知ろうとして手に取った本にそんなようなことが書いてあったりもしたはずだ。
少し構図は違うのだが、欧米でも固有の条件下で同様の障壁があり、認識や議論が阻害されている。欧米の議論は日本でそれを一知半解に受け売りする人たちによってさらに歪みを増幅させて、日本国内での知的権力構造の中で移入され拡散されるので、新たな誤解と障壁を生む。
「欧米のイスラーム理解は誤っている」という議論は多いが、実際にはそういった議論は、欧米のリベラル派の立場からイスラーム教の実際の信仰のあり方に目を閉ざし、欧米での議論を保守派・宗教右派批判という文脈で一方的に表象しているため、それ自体が政治的な意図やバイアスを大いに含み、誤解を生んでいる。
欧米の議論の、本当の意味での制約やバイアスについては、「イスラーム国」をどう理解すればいいのか、という議論が湧き上がる中で、これまで躊躇していた人たちが、慎重に、あるいは思い切って、提起し始めている。
例えばこれ。
Shadi Hamid, “The Roots of the Islamic State’s Appeal: ISIS’s rise is related to Islam. The question is: How?” The Atlantic, Oct 31, 2014.
著者のシャーディー・ハミードは、「イスラーム国」の参加者たちは、宗教を「イデオロギーとして利用」しているのではなく、本当に信じているのだ、という点を、どうにか欧米の読者に理解させようとする。
In this most basic sense, religion—rather than what one might call ideology—matters. ISIS fighters are not only willing to die in a blaze of religious ecstasy; they welcome it, believing that they will be granted direct entry into heaven. It doesn’t particularly matter if this sounds absurd to most people. It’s what they believe.
これは「リベラル・バイアス」の問題だろう。いくつもある、欧米の主流派の議論が、善意のつもりで帰って中東の現実を見誤ってしまう原因の、一つである。これ以外にプロテスタント的な宗教改革をイスラーム世界に生じさせれば問題は解決すると信じるいわば「ルター・バイアス」や、宗教解釈を民主化して一般信徒が解釈できるようにして聖職者・教会権力の支配を解体すれば一般信徒は穏健な解釈をするようになる、という「民主化バイアス」もあると思われるが、これについては別のエントリで論じよう。
ハミードは、欧米の政治学者(ハミード自身を含む。彼はアラブ系だが欧米で教育を受けて欧米の研究機関に勤める、明らかに個人的信条としてはリベラルな人である)は、イスラーム教徒が非リベラルな宗教教義を自発的に信じていることを理解しがたいという。宗教やイデオロギーやアイデンティティを、物質的な要因によって引き起こされるものだと捉えるように、欧米の政治学者は教育・訓練される。これは、政治学者だけでなく、合理的・個人主義的で世俗主義的な世界観を持つ欧米の一般的な人、その中でも特に知識階層に共通すると言ってもいいだろう。それが、「イスラーム国」が依拠する、多数のイスラーム教徒が実際に信じている信条や行動原理を、理解することを妨げているというのだ。
Political scientists, including myself, have tended to see religion, ideology, and identity as epiphenomenal—products of a given set of material factors. We are trained to believe in the primacy of “politics.” This isn’t necessarily incorrect, but it can sometimes obscure the independent power of ideas that seem, to much of the Western world, quaint and archaic.
「イスラーム国」は、リベラル派が信奉する決定論、すなわち歴史は合理的で世俗的な未来へと発展していくことを運命づけられているという決定論が、中東の現実を説明できないことを明らかにした、とハーミドは論じる。
The rise of ISIS is only the most extreme example of the way in which liberal determinism—the notion that history moves with intent toward a more reasonable, secular future—has failed to explain the realities of the Middle East.
ここでハミードは、「イスラーム国」は「イスラーム的」と言えるのか?という核心をついた、専門家が誠実であれば誰もが内心は問いかけつつ、表向き表現することに躊躇する問いを立てる。そして、「イスラーム的だ」と答える。イスラーム教徒の多数派が「イスラーム国」を支持するわけではない。しかし、「イスラーム法によって統治されるカリフ制を復興すること」そのものについては異論がない。
ISIS draws on, and draws strength from, ideas that have broad resonance among Muslim-majority populations. They may not agree with ISIS’s interpretation of the caliphate, but the notion of a caliphate—the historical political entity governed by Islamic law and tradition—is a powerful one, even among more secular-minded Muslims.
「イスラーム教徒は我々と同じように育っているじゃないか、同じもの食べて、同じように子供達を育てているじゃないか」といった、おそらくは善意からの共感の言説は、実態から目を逸らすだけである。大多数のイスラーム教徒にとって、平和を求めることと、離教者には死刑で臨むべき、姦通には石打ちの刑を、と信じることの間に矛盾はないのだから、とハーミドは世論調査の結果を踏まえて言う。
This is why the well-intentioned discourse of “they bleed just like us; they want to eat sandwiches and raise their children just like we do” is a red herring. After all, one can like sandwiches and want peace, or whatever else, while also supporting the death penalty for apostasy, as 88 percent of Egyptian Muslims and 83 percent of Jordanian Muslims did in a 2011 Pew poll. (In the same survey, 80 percent of Egyptian respondents said they favored stoning adulterers while 70 percent supported cutting off the hands of thieves).
ハミードの議論はまだ続くのだけれども、それはまた別の論考とも合わせて議論することにしよう。
このようなことも言っている。
イスラーム教の教義体系にムスリムが完全に縛られているわけではないが、完全にそれから脱することもできない、というのだ。
Muslims are not bound to Islam’s founding moment, but neither can they fully escape it.
イスラーム教は教義の構造上、信者個々人が自由に選んだり捨てたりできるものではない。根幹の部分を変えることも難しい。ただ「棚上げ」して実際には適用しない、という便法が社会的な合意があれば通用するだけだ。その合意も簡単に壊れてしまう。
ハミードのこういった議論は、「アラブの春」以後の民主化の試みによって、実際にアラブ諸国の多数派のムスリムの民意が選挙で表出されたことを踏まえている。そこからハーミドが出した結論は、「政治的な自由化が行われば、非リベラルな思想の持ち主が多数派を占めるアラブ世界では、非リベラルな民主主義が誕生しかねない」というものだ。
これがハミードが昨年刊行した『権力の誘惑ーー新しい中東におけるイスラーム主義者と非リベラルな民主主義』(オクスフォード大学出版会)の中核的な議論である。
Shadi Hamid, Temptations of Power: Islamists and Illiberal Democracy in a New Middle East, Oxford University Press, 2014.
ハミードはこれを東欧やラテン・アメリカなど欧米的な価値観を基本的に受容した地域の事例とは異なる、世界の民主化の中での新たな事例としてとらえる。東欧やラテン・アメリカでは、社会の多数派の信条としては欧米的なリベラルな思想が広がっているにも関わらず、政権は言論の自由とか人権とか法の支配といったリベラルな規範を実現すると権力を維持できないから、それらを制限する。そこで、何らかの原因で制限が弱くなれば、リベラルな民主主義が実現しうる。ところがアラブ世界の場合は、社会の側が非リベラルな信条を抱いているために、民主化して多数派の意見が取り入れらると、非リベラル化してしまう、という。
アラブ世界のイスラーム教徒の多数派が実際に信じているものを、そのまま見つめれば、事態はかなり分かりやすくなる。欧米の議論のゆがみとは、実際には、現実のアラブ世界のイスラーム教徒はリベラルではないにも関わらず、リベラルな価値や世界観が普遍的であると信じている欧米のリベラル派がそのことを認められないがゆえに議論が混乱しているのである。
しかし欧米のリベラル派はしばしば、「アラブ世界のイスラーム教徒は実際にはリベラルなのに、欧米がオリエンタリズムによる誤った表象によって非リベラルであると誤認している、そのことが中東で問題を引き起こすのだ」という議論をする。しかし実際に選挙をやってみると、本当に非リベラルな主張が票を得て当選して権力を握ってしまう。民主化を是とするならば、非リベラルな、他者に寛容ではない民主主義を受け入れるのか?それが、中東に出自を持つ、リベラルな欧米人であるシャーディー・ハミードの問いかけである。