現在の歴史認識問題について

現在の東アジアの国際政治の最大の課題は、すでに活力を失った日本をどう縛るかではなく、活力がありすぎる中国をどう縛るか(「縛る」という表現がよくなければ、「猫の首に鈴をつける」)というものである。この基礎の基礎が、日本の議論ではしばしば忘れられていないだろうか。

かつて「日本を縛る」ことが東アジアの平和になにがしか役立っていた時代があった。といってもその間に東アジアに地域紛争は起きていたが。その時代を生きてきて、「どう日本を縛るか」を考えて発言して、それによって自我を形作り人生を築いてきた人たちが、現在高齢化し、新たな世界状況を見る意欲や能力を失っている。歳をとれば無理もないことである。かつて高齢者が希少だった頃は、むやみに新しいことを知っている必要はなかった。昔の知恵を伝えてくれるだけでよかった。

「自分たちが信じてきたもの、当然と思っていたもの、支えにしてきたものが、大きく変わってしまった」ということを認め難いのも、人の情である。できればそんなことには気づかずにそっと長生きしてもらいたい。ただ、そうばかり言ってはいられないこともある。

そんな時、遠くからわれわれを見ている同時代人の文章を読んでみるといい。

「8月15日」を日付とする英エコノミスト誌最新号の特集では「歴史問題」を扱い、東アジアの国際政治の勘所を簡潔に、象徴的に描き出している。カバーストーリーは、もちろん日本の歴史認識問題ではなく、中国の歴史認識問題を、現在の課題として取り上げる。表紙の惹句も単刀直入で「習近平の教訓:いかに中国が未来をコントロールするために歴史を書き換えているか」というものだ。

表紙はこのようになっている。

Xi's history lessons Economist 15 Aug 2015

この記事では、中国が9月3日に行う予定の対日戦勝記念日の軍事パレードに込められた中国の歴史認識を不安視している。“Xi’s history lessons: The Communist Party is plundering history to justify its present-day ambitions”(習近平の歴史の教訓:共産党は現在の野望を正当化するために歴史を強奪している)と題された記事の最も重要な部分を2か所訳出しよう。

【引用1】
This is the first time that China is commemorating the war with a military show, rather than with solemn ceremony. The symbolism will not be lost on its neighbours. And it will unsettle them, for in East Asia today the rising, disruptive, undemocratic power is no longer a string of islands presided over by a god-emperor. It is the world’s most populous nation, led by a man whose vision for the future (a richer country with a stronger military arm) sounds a bit like one of Japan’s early imperial slogans.
「中国が戦争を、厳かな式典ではなく軍事ショーで祝おうというのは初めてのことである。これが象徴するものを、近隣諸国は見逃さないだろうし、不穏に感じるだろう。なぜならば、東アジアで現在、勃興していて、破壊的で、非民主的な勢力は、もはや神である天皇の知らしめす列島ではないからだ。それは世界最大の人口を擁する民族で、それを率いる人物の未来へのヴィジョンは、より強盛な軍事力を持つより富裕な国、というものであり、日本のかつての帝国時代のスローガンによく似ている。」

日本が戦前に戻ってしまうことを本気で心配している人は、日本の外では少ない。それよりも、中国が日本の戦前に似てきていることを、多くの人が心配している。

結びに近く、エコノミスト誌は中国に反語的に問いかけ、忠告とする。

【引用2】
How much better it would be if China sought regional leadership not on the basis of the past, but on how constructive its behaviour is today.
「もし中国が、地域の指導性を過去に基づいて求めるのではなく、今日いかに建設的に振る舞えるかに依拠してくれれば、どんなにか良いだろう。」

理性の言葉とはこのように平明で簡潔なものだ。