【寄稿】『中東協力センターニュース』に寄稿

溜まっている掲載記事の紹介を続けます。

『中東協力センターニュース』10/11月号に、連載「「アラブの春」後の中東政治」の第8回が掲載され、ウェブ上でも公開されました。

池内恵「中東新秩序の萌芽はどこにあるのか—「アラブの春」が一巡した後に(連載「アラブの春」後の中東政治 第8回)」『中東協力センターニュース』2014年10/11月号、46-51頁

今回の注にも記しましたが、「「アラブの春」後の中東政治」という連載タイトルもそろそろ役割を終えた(次の段階に入った)と見られるので、次回以降はまた別の連載タイトルを考えるか、あるいは毎回単発という形にするか、検討中です。

連載のこれまでの回については、

「【連載】今年も続きます『中東協力センターニュース』」(2014/04/03)

「【寄稿】イラク情勢12のポイント『中東協力センターニュース』」(2014/07/03)

に記してあります。

この雑誌は「業界」に出回るので、エネルギーや商社など、中東に直接の接点を持ち、現実的な関係・関心を持っている人に届きやすい。つまり「娯楽として楽しければいい」という発想ではない人たちに届くので書きやすい(同時に、寄付で成り立っている団体と事業の性質上、無料でウェブで公開されるので、ある程度公共性も担保されている)。

このような「業界」によって読者の質量と資金的支えがなされている媒体に書くということは、常にそれだけやっていると大学の研究としての市民社会的公共性に制約が出てくる危険性を伴うといえども、中東の現実(日本での幻想ではなく)にコミットしたステークホルダーに直接届けられるという意味で欠かせない。

アカデミックな学会は規模と多様性がある程度以上の厚みがない場合は議論が行き詰まる傾向がある。しかしだからといってメディア・商業出版業界の提供する、不特定多数の消費者に「どっちが面白いか」という基準で評価される場に、常にいたくはない(たまにはいいが)。学術的な作品の成否を計るのに、情報に制約のある一般読者・消費者の「どっちが面白いと私は感じるか」という声を代用してしまっては、議論が発展しなくなる。

もちろん、興味本位の消費市場の論理が、専門家の業界での狭い視野・仲間内の事情で見えなくなっている・言えなくなっていることを社会的に選択するバイパスになることもあるかもしれないから、私は日本の「需要牽引型」の学術出版を全く否定はしないしその過去の功績にむしろ強くシンパシーを抱いている。だが部外者の興味本位の消費の対象となる商業出版市場に選択機能を委ねるしかなくなる状況は、専門家の業界が本来持っているべき、適切な議論を取捨選択して高度化していく機能が低下しているということを意味する。まずは専門家の業界を正常化・高度化するべきだ。しかし規模の制約から、日本では限界がある分野もあるだろう。ある程度の量を確保しないと競争が働かない(一つのヤマにまとまって付和雷同するのが多くの参加者にとって合理的な選択になってしまう)。

しかし、小規模・閉鎖業界の制約をバイパスする可能性がある消費社会の市場による選択機能も、現状を見る限りは、悪い方に行っているね、というのが私の観察。メディアが多様化し無料化して、産業として苦しくなっていることが根本の原因と思う。こちらも規模の問題が効いてきている。「貧すれば鈍す」というやつね。ネタとしてウケる話を乱造する特定の論者(元外交官、(元)社会学者・宗教学者:これらは何時「元」となったか判然としないが)の議論が、完全に間違っていたり一行も原典に当たっていなかったりするにもかかわらず、顔と名前が知られているといった程度の理由で雪崩のように集中して出版・発信される。それらが議論の参照軸になる。

それでは、国や社会としては自滅ですね。どんなにアメリカの社会や政府や政策に問題があっても、あちらには国の政策を定めていくための専門家の育成と研磨のシステムがある。日本とは気が遠くなるほどの差がある。移民社会・競争社会・流動性の高い社会は、こと卓越した専門性を組織的に、大きな規模で生み出していく面では強い。そこに膨大なお金が流れて巨大な産業になっている。日本では人とお金の流れが乏しく、消費材としての書籍・雑誌の市場によって買い叩かれて消費されているのが現状。

商業出版社の採算が苦しくなっているから、以前には大きな企業の一部の部門が担っていられた、ある種の公共的なレフェリー機能やフォーラム機能が果たせなくなって、ひたすら数をこなすようになっている。ミニコミ的に特定の読者にのみ最初から絞った出版も多い。要するにネトウヨとネトサヨ的な単争点のポジショントーク、結局は「ネタ」的な議論が中心になり、そうなっていることに当事者が気づいていない場合も多い。原野商法で土地を交わされた人から、転売してあげる、といってまたお金を取るような、同じことにひっかかる人を何度もひっかけて商売する出版物が本当に多くなった。

会社を存続させるための粗製乱造の本のライターとして研究者が使い潰されるようになっており、他方でまともな書き手、まともな所属機関はそういったものを評価しないから、消費財としての文章を提供する市場からは書き手が無言でexitする。読者は質の低いもののみ供給されていることに気づけなくなる。そうすると言論の質としても、経営としてもダウンスパイラルに入る。

日本は民主主義の国なので、社会の知的水準が下がれば自らの国の運営・判断の質にやがて影響してくる。

あるいは、そのような趨勢を見て、社会は質の低い議論に影響されているから相手にしなくていい、というエリート主義・テクノクラート支配が進んで、大多数の国民が判断・意思決定から実質的に疎外される可能性もある。無知な状態に満足した国民は「リスク要因」としかとらえられなくなり、「資産」ではなくなる。それでもいいのでしょうか?

「売れている面白い本が良いんだ、お前も面白い本を書けば読んでやるよ」という、ネット上で匿名で発言されがちな議論は、自分で自分の首を絞めている。そういうことを言う人は、消費者として生産者に上から目線で接しているつもりになりながら、実は圧倒的に損しているのです。

そもそも希少性の高い情報・知見を持っていれば、一般消費者にウケるための文章を書く必要はない。知らない人が損する、というのが世界の原則だから。

もっとも、少なくともそういった愚かさが可視化されるようになったことが、ウェブの効果とも言えるかもしれない。

消費者=神様になったつもりでの議論自体が、格差社会で落ちこぼれる人を自己満足させようとする「陰謀」なんだ、という風に見た方がまだましなんじゃないかと思う。そういう陰謀をやっている主体はいないと思うが、客観的に見てそういう風に見えることは確かだ。

これまで「知らない人も損していない」と思っていたのは、第一に幻想であるが、第二に、戦後はほとんどあらゆる分野について、「ほどほど」の程度の情報を米国が日本の官僚を通じて注入してくれて、それを受け取った官僚は「ほどほど」の水準で広い層の国民に便益を均霑するという原則のもとに動いていたからだ。今後は、自ら情報を求める人が得する社会に不可避になっていく(すでになっている)。そこに付け込む怪しい産業はいつも通り出てくるのだろうけれども。

でも私は全く諦めていなくて、下方向への競争から離脱して公共的な出版・情報流通を担う主体と資金をどこで確保するか、日々に秘策を練っておりまする。そこに賛同できる人は来てください。